快川 濃州南泉寺→甲州恵林寺 雑華世界に滅却心頭

昨日の東京14人。神奈川は3人。

東京の感染経路不明率53.2%など聞けば「おっそろしくて」東京の繁華街など歩けやしませんね。

そして首都圏ばかり気を取られていましたが、ここへきて北九州(16人)が弾けているようです。

 

静岡も他人ごとではありません。

午後からお天気の良さもあって焼津のイオンの沖縄産品特集に向かいましたがハッキリ言って「酷い人混み」。

レジの行列は間隔を空けるシステムもあってまったくクサクサさせられるほどでした。

 

「第2波10倍ルール」(ウィルスの強毒化)があるとすればいくら最近言われだした日本人の感染者、死者が各国と比べて少ない理由「遺伝的要因」があったとしても次のバクハツは免れないのでは・・・と不安になった一日でした。

しかし自分は大丈夫の慢心が少なからず「ある」というのが人間のオカシなところです。

 

日曜日は梅雨の走りでしょう、お天気は下り気味とのことですから家でじっとしています。

私の生活に合力する、紫外線が雲に遮られてしまいますので。

よって夜遊びなんてもってのほかですよ。

 

 

さて福知山市の企画で「本能寺の変 原因説50 総選挙」なるものがあってその結果が6月2日に発表されるそうです。

その50をざっと拝見させていただきましたが、私の持論である本願寺関わりについては一切なかったような。

ちょっぴりがっかりでしたが・・・。

 

最近では本願寺と土岐氏のつながりでいえば正年神社の件で記しましたが、その土岐との関係で光秀が信長に腹を立てそうなことを記してみます。

勿論その推論50の中には入っていなませんから、脱線なのかもしれませんが。

 

昨日一昨日と美濃南泉寺、土岐家菩提所について記しましたが、以上のことから本日はイキナリ甲州へ飛ぶことにしました。

先日、「こんど行くなら甲州」とほのめかしましたが、まだそれは実現できていませんのでやはり以前の画像になります。

 

六万墓について南泉寺の仁岫宗寿(じんしゅうそうじゅ)なる人の建碑とありましたがその人は永正十四1517年に土岐政房(頼武と頼芸の父 頼武の子が頼純、「帰蝶」の元夫です)が招いたといいます。

その人の次に寺に入ったのが土岐氏出自といわれる快川紹喜ですね。

南泉寺山門前に掲げられた宝物の一覧、4番目に快川の「頂相」(僧の肖像画)の存在が記されていました。

その仁岫宗寿-快川紹喜のラインは稲葉山城下の崇福寺(土岐満康の建立 場所はこちら)との転向パターンがありまた仁岫宗寿が妙心寺住職(27世)であったようにその弟子快川紹喜もやはり妙心寺に入っています(43世)。なお、崇福寺は信長が美濃に入ったあと信長の庇護を受けています。

 

それほどの高僧が土岐氏から出たということはやはり明智光秀にとっては土岐氏の滅亡のショックの中一つの光のようなものを見たのではないでしょうか。

土岐家の菩提を弔うという意味も当然にあったはずでしょう。

 

その快川紹喜が武田信玄に請われて甲州恵林寺(場所はこちら)に赴いたのが永禄七1564年。信玄が死した3年後、その葬儀の導師を天正四1576年に行っています。

 

面白いのは要は美濃と甲斐を繋げるチャンネルがそこにあったということですね。

大桑城下の「四国」名称の通り、名門土岐氏に合力あるいは表立ってでないものの手を貸したいという勢力がここにもあったということでしょう。

 

その快川紹喜を超有名にした言葉が「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」いわゆる「心頭滅却せば火も自づと涼し」が思い浮かびます。

それは後世の創作説が有力ではあるものの、天正十年三月の信長による甲州侵食の際にこの恵林寺の三門に押し込まれたうえに多くの僧たちとともに火をかけられて彼が焼き殺されたことは紛れもない事実であり、信長がその年の六月の武田一掃の祝宴気分のうち、次の目標四国・中国攻め画策待機の本能寺で明智光秀に討たれたということはまさにその恨みの凝縮のタイミングでもあったかと思えます。

 

快川和尚は信長に敵対した旧勢力の佐々木次郎(六角義定)などを寺に匿いその引き渡しを拒んだという咎で信長を怒らせたようですが、比叡山、本願寺、恵林寺と仏教の核となる勢力を攻め、立て続けに抹殺を試みれば、それは仏罰も落ちるものと世間は思うわけで。

それを平然と行った信長を光秀が討ったとしても「許されるはずである」とも光秀は考えたかも知れません。

これを記していて光秀は仏教庇護者代表のイメージすらしてきました。

 

②は恵林寺に掲げられた今一つ有名な語「雑華世界」。「この俗世の事ですね。

③は重文の四脚門。⑥⑦は殺された僧侶たちの供養碑。