笠名の応永五年宝篋印塔 塔身と笠残欠

昨日の東京の新規発症者は14人。神奈川12人。

神奈川は院内感染多し。

それでいて着実に街に人が戻っていますので今後なかなか「ゼロ」にはならないでしょうね。

感染を自覚していない未発症者が街を闊歩すれば病気は広がりそう。それを知ってのうえの解除なのでしょうが、そんなやり方をイチかバチかで選択したということなのでしょう。

私は「悪い目」の出ることを予想しますが。

 

静岡は2週間以上ゼロ。

当牧之原市は未だ発症者ゼロが続いていますが今自分的には家の周辺が一番に安心できる場所となっていますね。

まぁそれだけここが田舎で人が居ないからだとは思いますが。

改めて胸を張って田舎(人不在)が素晴らしいことだと感じています。そしてますます人混みに嫌悪を抱くようになりました。

 

先日来の塀の上の仕事によって尻痛が出現していますが、昨日の如く雨が降ればより家の中に籠りテレビを前に椅子に座りっきりになりますのでその辛さは一層です。そこで横になってうとうと・・・怠惰な一日を送りました。

 

大河ドラマは3回分の撮りだめがあって6月7日が最後に一旦中止に。てっきり先週の道三の死によって区切りをつけるかと思いきや・・・「貯金」はとりあえず吐き出すということで。

どうやら「イキナリ一乗谷 越前」という展開のようですね。

 

さて、地元ド田舎の遺物を久し振りに。

拙ブログ頻出の地頭方の処理場のある場所は「笠名」という地名にあたりますが、近くを通るバイパスのインターの名も勿論「笠名」です。一昔前といえば地頭方村の一字名ですね。

 

私が処理場経由で浜岡池新田の叔母宅に向かう際、100%通らなくてはならない道があります。

バイパスを潜って右側の池を見ながら西の方向に向かいます。左の山の向こうが堀野新田です。

この道を通る時に必ず思うことが「切り干し大根」です。

かなり前の話、左の山側から出てきた女性が私の2台前辺りを走っていた乗用車が跳ねました。

 

このような超がつくほどののどかな場所ですが、その先に見通しの悪い場所があってスピードも出ます。まさか左から人が出てくるとは思いもしなかったでしょうね。

私も車を停めて様子を見に行きましたが跳ねられた奥さんは倒れて動けない割に「私の切り干し大根」と異常に拘りの声をあげていました。その人の近くを見回せばそれが散乱していましたね。

 

集まったどなたかが119を手配していましたのでその場を去りましたが、人の雑念の嵐、執着心とはそんなものかと思いつつこの道を浜岡に行く際は特に気を付けなくては・・・と思うようになりました。

アベ総理殿も突然車に跳ねられたが如くの「新コロ禍」。

自分自身の災難だと感じているでしょうね。ワケわからない行動が目立ちます。

そういう時は前回同様早いところ「病院」へ行った方がすべての人のためになるのです。

 

その事故があったあたり、右側の山すそにある集落をその道と並行するようにある道の脇にあるのがこの「笠名の宝篋印塔」です。当地の史跡調査会等、関係者でその名を知らぬ人はいないくらいに地元では有名な石塔です(場所はこちら)。

価値あるところとして今は判読不可ですが、この石塔塔身に銘文があること。

地頭方村誌によると「応永五年(1398)三月二十二日禅定門」とあります。

 

ざっと見れば遺物としては塔身と笠の部分のみ。

他の部位は後付け修復の手心が加えられていることがわかります。それにしても今では「宝篋印塔」の名がありますが、これを修復しようという人は気構えとしては結構なこととは思いますが、どう見てもでたらめですね。

それは石質をみただけでもわかりますが。

 

要はいつのことか知りませんが「宝篋印塔」たるもののカタチを知らなかった、他の比較向学もなく「私が良かれ」と思ってデッサンしてしまった・・・そんなところでしょう。

この手のものは敷地所有者の付属物となりますので文化財指定以前にしばしば地権者がやらかしてしまうこと、各よく見られます。

 

この宝篋印塔の「笠」と塔身の施主あるいは故人の「名」を合わせて「笠名」と呼ぶ・・・などとまたもこじつけたくなりました。

 

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コメント: 4
  • #1

    くりくり (日曜日, 17 5月 2020 20:32)

    1398年南北朝合一がなり応仁の乱まえのつかの間の平和の頃ですかね。
    横地氏も勝間田氏も隆盛があった時代ですかね。
    この頃のものはすべて失われ、墓石だけが残ったわけですね

  • #2

    今井一光 (日曜日, 17 5月 2020 21:54)

    ありがとうございます。
    この石塔は案内にある通り谷向かいの丘陵(「椀貸せ松」)にあってそちらに転がり落ちていたものをどちらかの時代にこの場所に移したようです。
    今川時代にバラバラにされて放置された・・・(あるいは墓石を守るために隠した)と考えるとやはり石塔の関係者は横地や勝間田等藤原南家繋がりというところまで推察されるところです。

  • #3

    お祭り大好き (月曜日, 18 5月 2020 10:30)

    「相良町史は勝間田遠江守を墓主」と推測しているようですが、刻銘の翌年にあたる応仁の乱の1399.11.29に討死しているため、「文芸まきのはら」第13号P161に旧了見寺を開基した「了見法師の墓ではないか」との記載がありました。
    名前を承知しているのみで、現地未訪問につき悪しからず・・・。

  • #4

    今井一光 (月曜日, 18 5月 2020 17:19)

    ありがとうございます。
    相良町史も文芸まきのはらも私個人その件初めて知りました。
    諸先輩たちの見解があったのですね。
    応永記の」「勝間田の討ち死」に近いということですがこちらに墓(あるいは供養墓)がある意味が今一つ不明です。
    また了見寺の開祖は後醍醐天皇の皇子、大塔宮(護良)親王の子だと聞きますがやはりその時期だと時代がズレてしまいそうです。
    いずれにしろ宝篋印塔という形式で石塔をこちらに残そうとする仏教文化がこの田舎にあっても浸透していたことがわかります。