今私の「こころのふるさと」は 浄瑠璃寺の山門 

昨日は奥方の食品買い出しの運転手で某所店舗の駐車場で「待機せよ・・・」の時間がありました。久しぶりの何もしない時間。

このスーパーマーケットは店内大繁盛の様相、殆ど満車状態でした

その中10人に一人くらいの割でノーマスクの御仁もいらっしゃいました。

他人を見る目・・・今、そこかよ・・・他人とすれ違う時も、距離を保つことが安心に・・・。心荒んだ世になっています。

 

車中暑すぎてエンジンをかけっぱなし、エアコンオンにして21℃に設定しました。

本来なら窓を全開にしておけば快適な季節なのですが、周囲をたくさんの人たちが通りますので窓も開けられやしませんね。風上風下を意識したりします。

 

ちなみに一昨日は朝の雷雨に濡れて28℃の最強温風で温まったくらいですから寒暖の差は激しすぎます。

 

昨日記した友人のいる病院の発生は実は一人でなく複数だったようです。クラスターということですね。

私たちは今東京の「医療の現場」が脆くも崩れ去っている状況を感じとっています。

それがじわじわと当地へ進んでいることも。

 

月曜日の東京の感染者はやはり三桁復活(161人)。

要は検査をするかしないかでその数字の「お遊び」は違ってきますね。「少ない」という結果は検査をせず、恣意的にデータを集めないことから出る虚像。

それによって「ないことにする」手法(五輪開催のための)を未だ引きずっています。

それは現代において通用するワケもなく。ただし国民は幾度もその手にのせられていますけどね。

 

感染の有無がわからないから人は出歩くということが合理。

そこをマスク2枚配布でお茶を濁そうとするのは不合理。

 

義母の今の自宅に籠っての手仕事といえばマスク製作といいます。檀家さんでもせっせと手製マスクを作っている方がそこいらじゅうにいますね。腕に覚えのある方ならば・・・大抵は女性・・・マスクなんて自分で作れてしまいますよ。

やはりもっと「気の利いたもの」がいいですね。国がやるべきことははるか違うところにあるのはずなのですが。

 

あの手の輩はそういう庶民の動向についてまったく理解していないということがわかります。知らないし本当は知る必要もなかった・・・

 

医療改革と称し人員と病院病床を減らしてきたことが今の崩壊寸前を招いているのでしょうが、そのことが彼らが一番に守りたい経済というものを惨憺たる崩壊に導いてしまうというのはいかにも皮肉です。

 

ということでPCR検査の、民間委託の件これからようやく進んでいくかとは思いますが、まぁこれはそれが進んだとしても遅きに失した感あります。

しかし「病の判定」は最低限これからの対処企図するための実データ、ベースとなりますので必要不可欠。

 

東京都は今後PCR検査のウォークスルー、ドライブスルーができる場所、軽症者の収容含めて未診断患者を集める病院に準じた施設を作る必要があるでしょうが、私が一番に思いついたのがつい最近お披露目された国立競技場の使用がいいのかと思います。

 

ひょっとすると来年までこのウィルス蔓延が続いていて無用のオリンピックの楼閣となりかねない競技場のデビュー戦とすればこれほどの「人のため」の実践はないでしょうね。

思い切ったゾーンの開設は喫緊の課題。

ノー天気にその開催どうこうを言っている場合ではないかも。

 

立地的にもこのうえない利便性、収容できる人数も申し分ないでしょう。まだまだその手のできたばかりの施設がゴロゴロしていそうですね、かの地東京は。

どうか都民の皆さんのために使ってあげてください。

 

さて、昨日から「こころ旅」は静岡県に入って森町でした。

こころ旅という番組が10年後に残っているかはわかりませんが、あるいは私の人生の中で「心に残る地は・・・」と問われたとして今、一番に思うのが浄瑠璃寺です。

急激にそれが浮上しています。

しかし「今」と記すのは、今後変わる可能性があるからですが。

ということで昨日に続いてそちらを。

 

私が浄瑠璃寺に初めて足を踏み入れてまず「へ~」と思ったのはその寺の山号が「小田原山」だったということ。

以前も記していますが母は神奈川県の小田原生まれ、祖母は倒産した老舗「みのや」の娘で私も小田原生まれの小田原育ち。

勿論私の子供たちも小田原で生まれています。

そんな身近だった三文字はその山門に掲げられた標で知ったのですが、この京都でも奈良に近い田舎の寺で見られることに感激したものです。

 

そのあとに以前息子も友人らとそちらに行っていたことがわかって、これは親子で別々に行っているとは縁の深い寺だと親しみを覚えたものでした。

 

その後、昨年末に母が亡くなりましたが、今年になってたまたま母が撮りだめていたアルバムをぺらぺらっとめくると・・・、その小田原山の文字と見覚えのある門にもたれて笑顔を振りまく半世紀ほど前の母が写っている写真が貼り付けてありました。

本堂の前にはやはり若い父の姿が。

添え書きに昭和50年の11月とありましたので、夫婦の齢は40代後半です。

これはまた驚きでした。

 

他に貼ってあった回数券の半券から新幹線で京都に向かっていたことがわかりましたが、それにしても京都駅からこのお寺に辿り着くのはかなり面倒な行脚です。

今の私の乗用車と高速道路事情から比して雲泥の差。

 

難儀することが想像できますが、父母夫婦でこの辺りをブラついていたことがわかりました。その理由については聞いていませんが、今更ながら両親に親近感が沸いてきました。

親子3代に渡ってそれぞれ知らないうちに、申し合わせしたでもなく、この門を潜っていたことの奇遇を感じました。

 

ということであの時は奥方を連れて大門仏谷に始めに寄り、挨拶をしたあとこの浄瑠璃寺に参ったのでした。

奥方を連れて行く理由は2代に渡って夫婦仲良くこちらに来たという事実を息子に伝え、是非「お前も」良き妻を娶り、「ここへ参れ」と言いたかったからです。

それがまた次の代に繋げられたら・・・・このうえない仕合わせです。

 

⑤⑦は母のアルバムから。