お金で何でも買えたが時間だけは買えなかった 当尾

時にC・イーストウッドの作品について思う所あって拙ブログでも幾度か記していますが昨年公開された「運び屋」もなかなかいい映画でした。

ストーリーについては各お調べいただくとして、私の第一印象としては「僕らのヒーロー」がお爺さんになっていた・・・ということ。そしてその分映画を見ている私も齢をとったということ。

 

彼の映画のお楽しみはその台詞。一言一言が爽快に感じますが、彼のアクションスターから老人を演じる事そのものからも伝わってきますがお話のそこそこに「無常」(時の流れ)感が漂います。

ストーリーも悪くなかったですが、一番に気に入ったのはエンドに流れて来る曲「Don’t let the old man in」と歌詞の和訳。

 

  老いを迎え入れるな  

 もう少し生きたいから  

 老いに身をゆだねるな

 ドアをノックされても

 

 ずっと分かっていた

 いつか終わりが来ると

 立ち上がって外に出よう

 

特に1番のこの歌詞の一句一句「まったく同感」。

そのように生きながらえれば仕合わせです。

「ドアをノック」は和的にいえば「お迎え」なのでしょうがこちらからドアを開けることはないですね。

ボブ・ディランの「Knockin' on Heaven's Door」なども連想してその比喩もニヤリとさせられました。

 

「老いを迎え入れずあともう少し生きたいのなら外に出る」

それでよろしいかと。私の今の考えを追認していただいた気がしました。尚、表記はやはり映画の最後で語られた台詞。

「時は金なり」などいう諺は耳タコでわかっているつもりではありますが、彼がそれをしみじみと語ったときビシッと響いてきました。

 

さて、昨日は道に転がる墓石の件、記しましたが外に出て何気なく歩けばやはり墓石を見つけますがそれは野に流れる小川の中でした。

まぁ場所的に南山城当尾(木津川市)という土地柄ということもありますが、まず私が川の中に目をやって気づいたのは④の円形。自然界にあの球形物はまずないでしょうね。

 

五輪塔などの石塔類のパーツの可能性がありますが、その付近に目を転ずれば⑤の画像が。

台座に据えるためのソケット状の突起がわかりますね。

⑥⑦⑧が御対面の図ですが、どうやらこの墓石は水路の溝に使用されていたようでした。

きっとこの石仏はたくさんの時間を重ねたのでしょうね。

このタイプの地蔵+阿弥陀(おそらく・・・)のパターンはこの地区に多く登場しますが(岩船寺にも)、この水路のパーツにされた「石材」は南北朝期~室町中期はカタイかと。

ブロック2個(約300円)と交換して持ち帰りたくなりました。

何も溝の工作にこちらを使用しなくても・・・

やはりこれら、お金で買えるものではありませんね。

小川の名は「新川」場所はこちらから。