高天神城の攻防と比木の城 黒山―山小屋論争

午前中の史跡研究会の会合の延長。

会の増田氏の声掛けによって午後から比木公民館に向かいました。

比木にて「古城」(静岡古城研究会)の前会長の水野氏が来られるということでした。

新野の鈴木東洋先生の活動を引き継いだ会ですが、水野氏も既に名誉会長に勇退されていたとは・・・まったく時間が経つのは早い。

 

演題は表記「高天神城の攻防と比木の城」でした。

それにしても失礼な言い回しですが、こちらの比木という地の公民館での開催に「なんで?」とは思いましたが、演題に「比木城」が入っていましたね。

ちなみに公民館の位置といえば比木賀茂神社の西隣(場所はこちら)。

それにしても「比木の城」といってもその存在について承知していた人は稀れなのではないでしょうか。

どちらかにも記しましたが御前崎エリアに「城など一つもない」などという(大き目の)声を聞いたものでしたし・・・。

 

拙ブログではかつて比木の城について(またはこちら こちら)記していましたのでこのタイトルは面白いと思って増田氏の提案に乗ったというワケでした。

 

水野先生の主眼は当御前崎地区に山城が点在していてかつその築城と活用が誰だったのか・・・(なのですが、残存史料皆無につきすべてが推測ということになりますが・・・)その史料が残っていないことこそが、敗者撤収組の武田勝頼の仕置であることが推すことが出来、かつ当時の民衆(中世以降の「地下人」)の立ち位置、方向性とは基本的に戦乱からの逃避・・・逃散・欠落であってそれこそが「山」だったいう解説でした。

 

日本全国夥しいほどの山城があって、現代であっても新発見の報は枚挙にいとまがありませんが、そこのところを「山小屋論争」の件、引いていました。

 

「山小屋」は戦闘地帯(草刈り場)に住し、農耕生活を行っていた地元民がそれから逃げて、山に暮らすベースを言いますが、その地での集団生活に於いて外部からの襲来を恐れることは当然でしょう。

 

尚、「山小屋」の点在する場所は地名として「黒山」「中山」でありそれらの名称は「境界地」を意味し、「中山」は読んで字のごとく、「村と村の真ん中の山」。

また「黒山」の「黒」は図面境界を黒く(墨で)囲って示したならいから「黒〇〇」は境界を示唆する場合があるとの説明をされていました。

 

よって境界逃避場所の規模が大きくなると曲輪状の開削地(住居域)に土塁・空堀などの防御施設を附属することもあって、現状我が国の戦乱の起こった地にはたくさんの城砦が見られるのはそのための可能性があるとの結論を得る事ができると。

戦乱期にはそれら民を自軍に取り込んで戦闘員とすることも至上命題であって結果的にそれら城塞も接収され自軍の前線あるいは後詰の城として耐えうる改変を加えたということもこの地の城塞たちの歴史として付け加えられていました。

 

特に塩買坂経由の高天神兵糧納入路が困難になりつあった勝頼軍がより沿海側に移るとともにこれら比木の城から朝比奈城に新野の各城塞にかけて整備したという流れでの解説でした。

 

「信長を引き込んで一矢を報いる準備」との御説には少しばかり先生の当地へのリップサービスがあったように感じましたが。

 

尚、山小屋論争について「週刊長野記事アーカイブ」に井原今朝男氏の記事がありますのでリンクさせていただきます。

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (日曜日, 19 1月 2020 10:26)

    水野茂静岡古城研究会名誉会長のサンケイ新聞に毎週連載した「静岡古城をいく」を時々拝読しました。
    会長退任後も相変わらず元気に活躍しており、感心しています。
    鈴木東洋さんは逝去後早や7年近くなり、新野左馬助墓所は直虎ブームがさり元の静けさになりましたが、地元の新野では新たに墓所周辺の「萩の里」作りに努めています。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 19 1月 2020 19:35)

    ありがとうございます。
    水野先生はお元気そうで「忙しい」と仰っていました。
    講演後、演台に近づいて声を掛けると「そう、そうお寺の方ね・・・」とその記憶力の良さに
    驚かされました。
    山歩きをしつつそのお話しをすることに健康というものを再確認しました。