成人期のADHDの診断チェックリスト 奥方の見立て

イイお天気と無風ほどありがたいことはありませんね。

昨日予定していた仕事は捗ってまずまずといったところです。

庫裏玄関前は物置状態でこれまでずっと見苦しい様を晒していましたが今度の葬儀を前にしてその辺りの乱雑を一挙に整理しました。

これも母が「いい加減キレイにしろ」と言っているようで・・・

 

通夜は雨予報になっています。 

前日の準備設営が雨ではありませんのでそれはそれでラクなのですが雨中暗くなってのお参りのコンディションはそれを待つ身としては恐縮してしまいます。

またそれ以前の予報では通夜・葬儀と雨予報でしたが葬儀の日の雨マークが外れたことは良かったのですが。

 

愚痴を言えば土曜日が「友引」で、葬場が休業日にあたったものですからこのタイミングになってしまいました。雨天は仕方ないとはいえイラっとするのはいつものこと。

毎度悪天強行は「しない」というのが私自身のスタンスなのですがこの手の予定のあるものは致し方ないですね。

 

さて、母の病状というかそれは殆ど老衰に近いものではありましたが、今年5月の段階で担当医師からは「その自然の流れに抗っても無駄だろう」という指摘があり、食欲も減衰してきたためにその現状報告と葬儀式について盂蘭盆会の世話人会で報告していました。

 

それから少しずつ食欲の方は回復してきましたが身体機能の復活にまでは至らず、結局はこの師走に往生したということです。

 

「ヤバイよ」と言われて7か月も存命でき(これは当人の意思とは違うかとは思いますが)今、当家私どもの「慶び」でもあります。

ただの時間の延長といってはそれまでですが、神奈川県に住む妹や孫たちと数度に渡って会う機会を戴けたということですからね。

また「よろこび」と記すと語弊がありますので付け加えますが、その考えは真宗的思想に溢れています。

 

それは 

たのむ一念のとき 往生一定御たすけ治定と存じ 

   このうへの称名は 御恩報謝とよろこびもうし候ふ

と蓮如さんの改悔文(がいけもん)にありました。

 

御恩報謝とは阿弥陀仏のおたすけそのものも含まれますがそれを伝えてくださった御開祖そして善知識にすべての人たちとの「縁起」(かかわりあい)へのものです。

その機縁をまさに「よろこぶ」というのが真宗門徒のスタンス。

 

たった「一念」(称名)でその「よろこび」にまで到達できる易行道は浄土真宗ならではでしょうね。

何といっても「雑行雑種の自力の心」は捨ててしまっています。

ぶっちゃけのたとえで言えばすでに「よろこんで」いますのでそれが「信長如き仏敵」の刃などものともしない気概となりそれが信長敵対勢力数ある中にあって長期にわたって抵抗しつづけ得た「エンジン」になっていました。

 

さて、上記「エンジン」なる語を使用しましたが少し違和感があるかもしれません。

先日見たある設問の中にその語が使用されていて、面白い表現と思ってそれを借用しました。

 

その設問が「成人期のADHDの診断チェックリスト」で、「森林公園メンタルクリニック」なるサイトから奥方が拾ってきたようです。

それをプリントアウトして奥方が私についてあてはまるものをチェックしたということですが、なんと満点をいただきました。

昨日息子の「活発」に「病院に行け」と言い放った教師の言葉は今も我が家に脈々と生きているのです。

 

満点の栄誉は「ちょっとやり過ぎ」の感がありましたのでそのリストを「奥の墓道氏」に送って「私について」の再チェック(セカンドオピニオン)をしてもらいましたが、やはりどちらの設問も漏れなく当てはまるとの判定。そして爆笑していました。

 

その設問の中にあった「しばしば “じっとしていない” またはまるで “エンジンで動かされるように” 行動する」にニヤっとさせられつつ「そのように映っていたのだ」と知りました。

「しばしば」とは何ぞ・・・とも首を傾げましたが。

 

エンジンをかけるが如く活発、邁進することは特段悪い事ではないだろうということと、他者から見ればそれを奇異な目をもって見られているのか・・・とも感じました。

 

ただ、私は生身の人間であって機械式に動いているワケではありません。

まぁ、ただの一念で「よろこぶ者」にエンジンが装着されれば敵対勢力やそれを嫌う者にとっては「怖い」かも知れませんが。

あえていえば、自爆とガス欠はつきものでコントロールは必要ですが。

 

私は胸を張るようにこの書面を叩きつけてきた奥方に反論しました。このテストに満点を取る人間と「どんだけ」いっしょにいられるのだと。

そっちの方がよほど奇特、オカシイと思わないか?・・・です。

そうだとすればある意味また有難いことですが。

 

ということで人の判定も目も口も「気にすることはない」ということをお勧めしたい。

まぁ「気にする」という感覚そのものが連鎖的に悪い方の化学反応を生んでしまうのでしょうね。

世にその手の指摘を受けて悩むより「気にしない」の気持ちで時にメンテナンスをしながらエンジンをかけ続けていれば何とかなりますよ。

 

人間どこかしら「そもそもオカシイ」ものなのです。

そのうえ「自我」があるのですからバランスなど取りにくいものです。

「みんなちがってそれでいい」。

ただしそのような指摘はよろこんで聞き、うまいこと修正(協調しようと)する努力が不可欠なのですが。

 

「我」ばかり主張していたら「関わり」(縁起)を求めていく人の生き方の中で浮きまくりますからね。

その辺りは「経験」に解法があるのですが、これは社会性でしょう。

家でゲームをするという習慣が皆無だった時代に育てられたことに感謝したいです。

 

私の幼少・少年期の遊び場といえば海・川にどちらかお寺の境内でした。

外で遊ばす機会の減少がつまるところ社会の首を絞めているに決まっているのですがね。

 

①②は父の葬儀の際の本堂正面画像。本日このように。