国分寺崖線 野川の「はけ」下と上の遺蹟

ブログでもどちらかで記した覚えがありますが、私の学生時代の本拠地といえば狛江市。

地名的には東野川(場所は下記地図に)といい、狛江市のくくりとはいいながら世田谷区との境界で小田急で都心に向かうには絶好の場所でした。

ただし1年生の時の東京浅草本願寺の夜学通学は辛いものがありました。

昼間の学校が終わってからのその時間は居眠りとの闘いでしたからロクな勉学もできていず、結果このような無作法の様になったのでしょう。

 

その境界線野川の向こうが世田谷区で超高級住宅地。

「崖」下もたくさんの家々が並んでいましたがそのころの野川周辺にはまだまだ自然が残っていて昨日記した「崖」の上と下を繋げる坂道をよく行き来しました。

 

昨日はふるき郭」の"はけ"と呼ばれる国分寺崖線上」なる表現を借りてその「崖」-はけ-について記したところ、「がつお」氏よりコメントをいただきました。

深大寺近くの佐須に江戸期に伊賀者がその崖下の谷あいの林の中に生活したといいます。

深大寺と佐須については調布市のサイトに「はけ」の解説がありますのでそちらを参考ください。

そちらに「はけ」の地製の解説図がありますが上記「国分寺崖線」が野川によって削られたことがわかりますね。

 

その野川に沿った「はけ」を少々上流に行った場所に「はけ」の語を多く目にする場所があります。

そちらが昨日深大寺方向に急ぐと言いながら少しだけ寄り道した武蔵野公園(小金井)です。

寄り道とは言っても多磨墓地に隣接している場所でそちらの北側を流れる野川が作った段丘を見ることができます。

 

「はけの道」と名付けられた小径、ただし自家用車は両面交通ができます。といっても途中小型車一車しか通過できない西部多摩川線の小さなガード(幅員1.9m高さ2.3m制限があって屋根の高い車は進めません。また7~9時 15~22時の厳しい通行禁止時間があります。

その小さなトンネルを潜って直進すればその道が「はけの道」になります。

野川が作った「はけ」が目前にあります。左手に野川の低湿地帯、右にはその段丘があって住宅地が広がります。

こちら野川の「はけ」の下も上も古くからの人々の生活の跡が発見されています(場所はこちら)。

平日午前にのんびり歩くのがおすすめですね。

 

当然段丘に上がるには坂道になりますので各所に「〇〇坂」と名付けられた道が付けられています。

そのうちの「みはらし坂」を上がると栗山遺跡なる人の住まいを示す跡が。

その近くには「はけの森美術館」なる名も発見しました。

 

 

 

 

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コメント: 4
  • #1

    がつお (木曜日, 12 12月 2019 09:17)

    1点だけ訂正を。
    佐須は伊賀者の給知ですが、彼ら自身の住まいは四谷です。
    もちろん、知行をしている以上誰かがいた可能性はあるかとは思いますがそのあたりまでは承知していません。
    それと狛江にお住まいであったとのことなので伊賀者の給知についてもう一つ。
    小足立村(今の西野川あたり?)も伊賀者の給知でした。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 12 12月 2019 19:08)

    ありがとうございます。
    「給地」に関して実際に「伊賀者」が入っていたかどうか、史料に伝わらないのは彼らの任務として「忍」(諜報活動)があったから・・・などと面白く解釈してしまう私があります。
    小足立村の件面白いですね。
    そうなると佐須とともに甲州街道を挟み込むようにあって西から来る良からぬ者の動きが把握しやすくなりますからね。ただしその時代について前後するかも知れませんが。
    西野川と東野川の一部にその名が伝わっているようですが私が住んでいたのもそのあたりでした。久し振りにあの辺りをブラついてみたいと思ったところです。

  • #3

    がつお (金曜日, 13 12月 2019 10:31)

    時代的にも面白いところだと思います。
    伊賀者は家康の江戸入り(天正18年)に御供していますし、彼らに知行地が与えられるのは天正19年で、まだ北条や武田の不穏な動きもあったであろうと想像できますね。
    実は今までの話は服部半蔵正成配下の伊賀者で、もう一組服部仲保次配下の伊賀者もいて、彼らには仙川の地が与えられました。
    服部仲の組は元和4年に不作のため場所替えを希望をしますが蔵米に変更され知行地がなくなります。
    これも妄想するならば「そこまでの脅威がなくなったから伊賀者を配しておく必要がなくなった」とも考えられます。

  • #4

    今井一光 (金曜日, 13 12月 2019 20:09)

    ありがとうございます。
    甲州街道は重要街道の位置づけはあったものの実際の通行に利用した大名も少なかったようですし、その宿場の繁盛は東海道、中山道にはかなわなかったはずです。
    天正末期では本格的街道と宿場町としての整備はまにあわず、伊賀者たちは中山道からショートカット分岐する甲府への古い街道筋へ少数流入する者への監視役として入れたのでしょうか。
    そして武蔵野の森と彼らの故郷伊賀の里は同等のイメージがあって家康の配慮があったのかも知れません。
    宿場町の繁盛をあてにしていたもののその利用者が伸びず、現金収入(森林から調達する薪等)も期待できないところから知行地としての魅力が低下し場所替えを希望したのかと。