三幕目は手越の宿 忠義に生きるか親子の情 報恩か

昨夕は予報に違わず北風びゅーびゅー。

気温的にはそれほどの低下ではありませんでしたが風の強いのには閉口します。

お取り越しへお邪魔する日でしたが、髪の毛がぼーぼーになるのはちっとばかり気が引けますからね。

「真宗坊主ですから」などいう開き直りもまぁいいのかと思いますが、一応は見栄えも気になります。

まぁ「乞食坊主」なる聖なる僧籍に憧れる身としてはその手の事に気を配っているのもおかしなものですが。

本当の乞食(こつじき)の道を歩めるはずもなくそれもおかしな話です。

 

坊さんとは、常に自己の矛盾・反省を問い続けて行かなくてはならないのでしょうね。

門徒の坊さんのその反省点は齟齬でもなく、また傍からみてよく言われる「行」というものの範疇にありません。

要は「御開山の御掟が守られているか」ということのみです。

 

その御掟とは阿弥陀仏への信心一つから獲得した「安心」(あんじん)が生活に溶け込んでいる、いわゆる「お念仏(南無阿弥陀仏)の人」なっているかどうかなのでしょうね。

それを勧められた御開山への報恩感謝の御礼が「南無阿弥陀仏」であり、この報恩講(毎年11月28日)こそが当流ならではの「反省」と「感謝」のキャンペーン。

1年中、それらを感じずにのほほんとただ当たり前のように生きてることは「あり得ないぞ」のお達しです。

それを毎年迎えられる有難さも真に味わうことができるというものですね。

 

カンタンの様で難しい。

その反省を「改悔懺悔」(がいけさんげ)と蓮如さんは言いますがコレもただの「私の悪いところを修して良いことをしなくては・・・」的反省とは違うのです。

恰好や体裁にこだわらない真の自身の心を見つめて「愚」になり切る念仏者になっているかそれを自問する「週間」です。

 

報恩講日中の御文が息子が拝読した三帖-十一「毎年不闕」でしたが、昨晩初めてそちらを先方仏間にて拝読しました。

好きな御文ですが、何分少々長いということと難解な言い回しがありますので拝読の機会はこれまでありませんでした。

よって御門徒さんのお内仏前での拝読は初めての試みです。

 

あの内容は聞いているだけでは理解不能の部分がありますので予め人数分のプリントを作っておいて目で追っていただきました。

本来は「聴聞もうしわけ」でありますので通例の「頭を垂れて」とは違いますが、こういうカタチで御文を拝読した後、「法話」へと引っ張っていくのも悪くないかと思いました。まぁロクな話もできませんが。

 

さて、先日は通し狂言 「孤高勇士嬢景清(ここうのゆうしむすめかげきよ)  四幕五場― 日向嶋 (ひゅうがじま)を観劇。

渋い演目とあって奥方の隣も私のお隣の奥様方はそれまでそれぞれのお友達への深い講釈と打って変わって開演後スグに大口を開けての睡眠。

私は台本帳購入しての台詞チェックの様相でしたが、それを見た奥方は「観劇方のスタンス」について役者から見たら「そのギャップ何とかしろ、だろうよ」と苦笑していました。

 

感動の場面といえば、「日向嶋」で景清とその娘との再会そして劇的、目出度しの幕ですが、面白いと思ったのが三幕目。

「悪七兵衛景清」の娘「糸滝」が遊女屋「花菱」に身売りして得た金を零落乞食(こつじき)の道を歩む父に届けに行くことになるのですが、その遊女屋「花菱」があるのが手越宿

手越宿といえば白拍子、遊女のイメージは固かったのでしょうね。

 

景清の娘といえば景清の居場所を問い詰められる阿古屋の玉三郎を思いますが、糸滝の母上は「ひょっとして阿古屋?」と思わす場面がありますね。

 

大金を支払いながらも「花菱」の怖そうな奥方「おくま」も主人も糸滝に同情し父に再開してお金を渡したいという彼女の日向行脚に向かわせるという段ですが、現金を渡して「取り敢えずは行ってきな」という具合に許しを与えるなど今ではあり得ないような心優しさ。そのお店で働く女郎まで餞別を渡すところなど、ほんのりさせられます。静岡人の人の好さでしょうか。

 

こちらの景清の生きざまは他の劇中のおどろおどろしい強さと違い、傍から見ていてどうしても意固地で歯がゆさ(人間)というものを感じます。

滅亡した主君への忠孝恩義が大切なのか娘(家族)への愛情が大事なのかその葛藤をギリギリの人間として描いたものでした。

中村吉右衛門の景清、しばしの間よろしきご縁をいただきました。

 

私は個人への崇拝敬服はありませんし、忖度などない世界に生かされていますが、御開山と阿弥陀さん・・・「次第相承の善知識のあさからざる御勧化」特に蓮如さんの御文は拝読するたびに感謝と反省の思いを呼び起こされます。

 

しかしながら悲しきかなニワトリと同じ、数歩歩いてスグ忘れてしまうところがミソです。まったくもって凡夫。

凡夫に乞食(こつじき)、それがありのままの私。

今は息子が何とか自立してくれて、私にどうこう言うまでになったことを一番に感謝しています。

勿論報恩講にあわせて。