文化財は永遠に・・・とはいいながら ショッキング

報恩講本法要の準備におおわらわの日々です。

夕刻にはお逮夜法要がありましたが、午後からは法要が入っていました。

施主の住まいは阪神高速の魚崎近く、片道5時間の帰郷、墓参行脚です。

スケジュール的に「その日」だったわけで、まぁ10日の当地各イベントといい重なる時は重なるものです。

 

セッティング準備に境内が慌ただしい中、堂内法要の勤修に参列の皆さんも気が散ったことでしょう。

遠いところから来られているのに申し訳ない気持ちでした。

まぁ事前にその辺りのお断りはしていましたが・・・

お天気はまずまずでお帰りの5時間の間の天候の崩れはないことは有難いことでした。

 

息子も横浜の仕事が終わってからこちらに向かっています。

報恩講は帰って手伝えと強制的に休みを取らされるようです。

 

さて、ショッキングなニュースでした。

私からすれば首里城の炎上の炎と同様、あるいはそれ以上に動揺させられた画像です。

 

11月6日の岐阜新聞によると大垣市綾野の真宗大谷派真照寺でのできごと。

『江戸末期に造られたとされる本堂の正面側の軒が幅約15m、奥行き約5mにわたって境内に崩落した。同寺によると、崩れたのは4日午前11時30分ごろ。

風は強かったものの前兆らしい現象はなかったといい、原因は不明。

1891年の濃尾地震で大きく傾いたが、檀家の協力を得て解体、補強して建て直したと伝わる。その後、瓦は定期的にふき替えていたが、少なくともここ50年間ほどは建物自体の補強工事は行っていなかった。

崩れた軒先は長くせり出し風雨にさらされて老朽化していた。岐阜大工学部の木下幸治准教授(維持管理工学)は「寺社仏閣は耐震設計のような発想がなかった時代に木材のみで造られたものも多く、日頃から専門家に点検を依頼することが非常に大切」と指摘した。』

 

お参りの方がたまたまその下に居なくてよかったです。

住職は本堂の中に居たそうですが・・・

 

「専門家に点検を」の件よくわかりますが、拙寺の状況も上記のお寺と殆ど同じような感じ。

どうしていいかなどわかりませんね。

点検して何かしなくてはならなくなったらまた頭が痛くなりそうですし、黙って見ていていいのかという気持ちもありますが・・・

物のカタチとしてあるからにはいつかは滅ぶのは必定。

永遠にそれを維持させることは不可能と思われますが。

 

①②は先般足を運んだ博物館の図録。

③は牧之原市からの文書お達し。

スプリンクラーに放水銃も欲しいけど・・・

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コメント: 2
  • #1

    がつお (日曜日, 10 11月 2019 16:06)

    写真を見て不思議なのが屋根裏から飛び出している丸太は何でしょうか?
    柱に比べて屋根材がそこまで古い感じがしないので屋根の部分だけ改築して、建物本体の柱がどうにも弱いので屋根を支えるために×状に丸太を這わせて屋根の重みを分散させようとしたとか・・・。
    そうなると耐震もクソもないような気がしてきますが、普通自宅の屋根裏をのぞこうなんて人はほとんどいないでしょうしね。
    我が家のお寺は数年前に檀家から一口10万の寄付を最低一口以上と募って木造からRC造のお寺になりました。
    自火報も付けると毎年点検しなくてはいけなくなりますし、何事においても先立つものはなんとやらということでしょうか。
    何よりけが人がいなかったのは仏様のご加護ですかね。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 10 11月 2019 19:19)

    ありがとうございます。
    おそらくあの丸太の違和感は仰る通り後補の桔木が露出したところだと思います。
    桔木は耐震として殆ど役立たずというか重量が増すばかりでそれを受ける柱の部分が2本そして数本の露出した虹梁で支えるのみになるあの部分は他所に比べて特に耐力は劣るでしょうね。
    あそこを補強するとなれば柱の強化可増設しかありませんが、見栄え的に台無しになるでしょうね。
    拙寺の本堂もいずれは崩壊することが予想されますが、それに抗うことが正しいのか
    たんたんと受け入れるのか、「どうしていいかわからない」というのが本当のところです。
    資金的に恵まれれば手を加えたい箇所は無数にありますが・・・