寺標土台補強完成 板碑のベース(東京国立)はコレ 

岩手県の釜石市がワールドラグビーの年間表彰(キャラクター賞)を受けていました。

東日本大震災の津波被害からの復興を通じてラグビーの価値を高めた」ということが理由だそうです。華やかに盛り上がった今大会にあって地味な裏方としてこつこつと活動してきた成果が認められたのでしょうね。

あの大震災からの苦難を乗り越えての活動が評価されたことは本当によろこばしいことでした。

 

日本全国「自然災害」の増加はどちらでも困りますがこと東北地方の人たちがそういった災害に遭うことを見ると二重三重の苦痛を強いるようで一層のため息が出てしまいます(それは自然災害にあわせて人間の余計な造作・・・厄介な原子力発電所発のいろいろがあったこともありますし)。

 

そこに昨日のニュース。

例の台風19号で仙台市の災害用の備蓄食料が浸水被害にあったとのこと。計約2万7600食の約650万円相当がおじゃんになったようですが、保管倉庫が河川氾濫時の浸水想定区域内にあることを承知していての被災だったよう。

それを言っては気の毒といえば気の毒ですがハッキリ言えばお役人の怠慢ですね。日本全国共通ではありますが。

役所というところはそういったところの改善の動きに関しては甚だしく「遅い」ですから、まぁわからないでもありません。

 

ちょいと市として余計な事を添えるな~と思ったのはおじゃんになった食品は「堆肥などに使用する」そうです。

体のいい変な言い訳・・・と思いました。

要は「土に埋めて捨てる」ことだろうと。

みすみす管理不適格地にあった食料倉庫について放置したことによって起こした損失と、予測する緊急時未対応になりうるリスクについて厳しい目で見る必要がありますね。

全国の自治体は一斉に見直さなくてはなりません。

 

私の地元でそれら非常食でも台無しにされたとして「ちゃんと肥料にしますから目をつぶって」などと言われたら私なら腹を立てますね。それを食い物の恨みといいます。

 

さて、門標補強工事は昨日で完成。

ガッチリ固めました。

逆に逃げの部分をまったく設けていませんので、棹の部分が根元からポッキリということも考えられます。しかしこれ以上の対応はもう無理かも。

そもそもこんな小さな寺の割に大きすぎる石標なのですから。

 

最近エライ人が流行り言葉にした「身の丈・・・」に合っていないということでしょう。あの半分から2/3でも十分でしたね。

まぁその言葉の使用方法としてはそもそも自身の身について語ることであって人様の「身分」について上からどうこう言うことがオカシかったのでした。大した「身」でもないのにね。

 

画像は完成した石標ベース部補強部分と「板碑(いたび)」のベース部分。

板碑は墓碑・供養塔など石標の種類のうち関東地方に多い薄型の石材で塔婆を象った物。

経年のうちベース部が欠落して土に直接挿しているものもありますが自立することはできませんのでベース部とセットというのが常。

それぞれの端末形状を凹凸状にして差し込むのは五輪塔の如くです。まさに碑にとって裏方さん。これがなければぐらぐら不安定な代物となってしまいますから大切なパーツです。

 

今回はその裏方さんだけをアップしましたが、あの口を開けたようなその奥の空間を思うとまた楽しい・・・

 

寺の石標も作りとしては板碑と同じです。

表記東京国立とは勿論上野の博物館のこと。競技場ではありません。

 

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コメント: 2
  • #1

    がつお (水曜日, 06 11月 2019 10:18)

    塔婆といえば、先日父の三回忌の法要をしたのですが、兄も私も塔婆を出さないことにしたところ住職からは塔婆は亡くなった人のための物だからせめて一つは出した方がいいのではないかと説法をもらいました。
    中国の紙銭のように塔婆を建てて法要後に焚くのであればわからないのではないですが、それを墓の後ろに掲げたままにする(現世に残す)ということにその意義が感じ取れないんです。
    住職からは追善のための塔の代わりに簡素化した板塔婆を立てるとのことで、私も追善供養そのものは否定するつもりはないんですが、その際にどこに思い(結局はお金ですが)を掛けるのか、目に見える形を残す必要はないのではと思うんですけどね。
    物を残す=自慢
    につながるだけのような気がして、それであれば塔婆の分の費用をいい線香にして焚いてあげたほうがいいんじゃないのかなと。
    そういいながら、もともとは経費削減が原因なんですが(笑)

  • #2

    今井一光 (水曜日, 06 11月 2019 17:59)

    ありがとうございます。
    塔婆もない五輪塔形式ほか「塔」をイメージする墓碑がない(追善の意識もありません)
    浄土真宗の私がその意義について語る資格はまったくありませんがきっとそれぞれの宗旨のならい(システム?)なのでしょう。
    がつおさんが仰っていることに同感する私が五輪塔・宝篋印塔を追いかけるのはただただ
    古い石塔の造形美。石工の仕事に感動するからです。勿論古い時代のその塔製製作の施主の「親を思う気持ち」も伝わってきますが。
    「板っ切れ」と言ったら申し訳ありませんが、アレが風雨で廃れて風が吹くたびにカタカタ鳴っている墓地は真に不気味です。
    今では塔婆用プリンターも出回っているようですが、あの面倒くさそうな習慣がなくて
    「真宗でよかった」などと勝手ながら思ってしまいます。
    真宗の阿弥陀のもとに集う仏さんたちご先祖さんたちも「わたしのことはほどほどにしてお前たちが美味いモノでも喰え」と言っているようにいつも聞こえてきます。

    とはいえ寺の運営維持には経費がかかりますのでポイントはそこのところでしょうね。
    寺標の請求書が怖い・・・