安倍川駅近 167000人 手越河原古戦場 

トランプのしたり顔と「まるで映画」の言に一つ思った事。

それはイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」の最高指導者をアメリカ軍の特殊部隊が急襲して殺すまでのライブ中継の感想でした。ホワイトハウス内で「作戦」を大統領が椅子に座ってモニターで観戦できるシステムですね。

 

その「映画」の件、トランプがIS指導者の最期の様子「犬のように喚き散らして死んだ」との言を付け加えていましたが、その台詞はやはりハリウッド映画で覚えがあります。

 

デ・パルマ監督の「アンタッチャブル」で警官マローン役のショーン・コネリーがカポネの殺し屋にマシンガンで蜂の巣にされて殺されてしまいますが、その後ネスの前でその殺し屋が言った台詞が「マローンはブタのようにわめいて死んだ」でした。

キレたネスが屋上から突き落として観客はスカッと気分が晴れる思いをさせられる場面でした。

 

その手の言葉は演劇などしばしば「言ってはならない、言わなくてもいい言葉」としてそれを吐いた人物の人生を変えてしまう語として扱われています。

まず要はその手の言葉は自分の首を絞めるような結末があるということですね。またそれは特に劇中悪役の台詞です。

 

またトランプは自分のおかげで「世界に平和が訪れる」的慢心を画像から溢れさせていましたが「歴史」から見ればそれはちょっとありえないのでは・・・と思ったのでした。

 

すでに「イスラム国(IS)」を狂信的に支持する人々は世界中に散らばっています。カリスマ指導者は一旦は不在となっても再び誰かが祭りあげられることもありますし、今度は潜伏してゲリラ活動にウェイトを移してテロのタイミングを見計らうかもしれません。

別にISでなくてもそのシンパや反米主義者(貧なる者たち)はいくらでも「我こそは・・・」と出てきそう。世界中に「不満」が蔓延っているからです。

 

また、いつまでも力でもって貧者(反米)を押さえつけられるという発想にも疑問がありますね。

まぁそういうことでトランプは余計な台詞を吐いたこと、一つ覚えておきましょう。

 

さて、先生同士のカレー騒ぎが世を騒がせているようですが私も激辛カレーを人に喰わせて「辛い」の悶絶の顔を見て大騒ぎした経験はありました。

辛いカレーはそれなりに美味しくて今も好んで食しますね。

罰ゲームの使用もありましたが、こっそりと「奥の墓道氏」にだけ激辛カレーを出して喜んでいたことも思い出します。

またそんな時といえばレトルトの「20倍」というものを使用しました。まぁそこまでくると「痛い」。

人に食わせても「自分はちょっと・・・」でした。ズルくて悪い。

 

カレーは家の奥方が作るカレーか外食のカレーかそれぞれ味わいがありますが、辛くて美味かったのは今はなき安倍川駅前の喫茶店のランチ。檀家さんが経営されていたお店でした。

かつて檀家さんで亡くなったNさんを連れて行くなど、何度か通いましたね。

結構に辛めでデザートに出されるヨーグルトによって涙と鼻水を落ち着かせたことを思い出します。やはりカレーと乳製品のコンビネーションはイイですね。

 

安倍川駅前といえば安倍川右岸。左岸は静岡駅方向となります。

最近まで改修整備を重ねてきたエリアですが、古来より藁科川と安倍川があっちこっちと流れを変えていたといわれて、今の駅前から安倍川にかけての低地はほとんど河原だったかとも推測できる地形です。

よって大昔は人の住むような場所ではなかったのではと思うところ。

 

その河原で今から683年前の1336(建武二)年に大きな合戦がありました。

後醍醐天皇が新田義貞に足利尊氏追討を命じて鎌倉に向かわせ鎌倉方が迎え撃っての衝突です。

この河原で何人の死者が出たかはわかりませんが天皇方新田軍67000に鎌倉方足利軍10万がその日の正午から夜8時まで全17回の総組討。

夥しい兵の血が流れたことでしょう。

その割には古い石塔が見えないのも不思議なところですが当初は河原に建てられていたものの川の氾濫によって流されたといったところでしょうね。

 

この建武の新政以後の激しい国内動乱のきっかけは「中先代の乱」ですね。

この「中」とは先代北条氏と後代足利氏との間という意味で短い間でしたが「鎌倉」を占拠したということです。

しかし「中」といってもその先代の最期の執権北条高時の遺児北条時行が諏訪頼重のバックで擁立、鎌倉幕府再興を旗印に鎌倉を奪い返したというもの。

それを討伐するために足利尊氏が京都から鎌倉に下向して北条時行らを一掃、それを機に尊氏が鎌倉に居ついたことから後醍醐天皇が怒って新田を追捕のために送り出した戦いでした。

 

後醍醐天皇は結局は自らの地位喪失と、何より戦乱と南北朝という時代を招いてしまったのですね。

北条家をISに準えるのは無茶ですが、君臨していた旧来勢力を一掃したとしてもその残党たちは再起をうかがい、また一旦戦闘によて勝利を得、好き放題した経験のある者たちは排除されたあと再び徒党を組んで一旗揚げようと試みたくなるものなのです。

 

この時代は武士たちが「土地」(一所懸命)を自らの所領として主張することに芽生えた時期。

きっかけは「中先代の乱」でしたが後醍醐天皇はその土地を自らの土地支配に戻そうとしたために武士層に抵抗されての争乱であったというのが通説です。「不満」が蔓延る時代でした。

 

画像は長田の「みずほ公園」(場所はこちら)。

長田(おさだ)は旧来のこの地の名称(安倍郡長田村)。

ところがそれが消えて1973年に新設された「みずほ」が住所地になっています。要は「キラキラ」ネーム?

 

こちらの公園に戦跡碑が建てられています。

この御時節、この辺りは「河原でした」などと言ったら怒られるかも。

その前に167000人が死闘を繰り広げた場所でした。

南無阿弥陀仏。 

 

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コメント: 2
  • #1

    坂本 修司 (月曜日, 19 7月 2021 19:29)

    合戦場近くに丸子川が流れていて青木側と寺田・鎌田側に分かれている。丸子川を水堀として敵の攻撃を防いだのが青木に陣地を構えた新田義貞です。鎌田の田んぼに茶の木田と呼ばれたモッコリとした古墳的な所に亡くなった兵士が埋められていると聞いた事がある!今は田も埋立てられてしまった。この近くの地名字が神田と言われていたのは亡くなった方々が神となった土地と言う意味だったのか?井尻と言う場所にも五輪の塔があると聞いた事がある。むかしは車が無かったから亡くなった多勢の方々を遠くまで運べず近くの土地に集めて埋葬してしまったかも知れない。武将に命令された近郊の百性達が武士達の衣類持物を剥ぎ取って片付け料としたのかも知れない?

  • #2

    今井一光 (月曜日, 19 7月 2021)

    地元の地名を紹介と解説ありがとうございます。
    河川改修も進み田畑埋め立てられて今は安寧平和の住宅街。
    大きな合戦があって死者多数、「浮かばれない者たちの血が流れた場所です」そして
    「その上に皆さんは平和な生活をしています・・・」などとは言いにくいところ。
    日本全国、合戦は行われていて、それをあげていればキリがないのですが、その上に乗っ
    た歴史の上に私たちの今があることを忘れてはいけませんね。