曳馬城外堀発見の報 見てみたい 曳馬の日限地蔵

日々台風19号被災の新しい画像と死者数が更新されて唖然とさせられる毎日ですが、依然水が引かない地域もあって被害の全容は明らかになっていませんね。

「72時間」という日時限定のいのちが「まだあるのだ」と思うと呑気なお調子者の躰ではいられませんね。

「たすけたい」の一心で動く名もなき人々に敬意を表します。

 

「同時多発氾濫」(52河川72決壊)なる語も出てあの台風の凄さをあらためて見直した思いです。

「あらためて」というのは当地に限ったことなのでしょうが、降雨に関して当初それほど多いとは思えなかったからです。

 

朝境内を見回すにあたって気づいたことはたくさんの落葉が残っていたこと。

大量の降雨があると境内の落葉はまず、流れにのって側溝に入りそのまま外部に排出されてしまうからです(よって「クリーナー」作用として期待するところもまんざらなくはないのですが・・・)。

よって朝、テレビから告げられる悲惨を目にするまでそれらの甚大被害については想像だにできませんでした。

 

あれだけ早いうちから気象庁が警告していたのですからこの結末には今さらながら「なるほど」と合点しているワケですが、

やはり「徒労に終わる」ことも覚悟して、気象庁の緊急記者会見や報道の雰囲気を感じ取って、台風のコースを先読みし早めの避難、特に機械的に動くという気持ちが必要ですね。

 

各地で破壊された家々のあと片付けと「泥」との闘いのニュースが入っています。本当に大変なことです。

拙寺の場合はまず「寺を離れられない」というのは奥方との暗黙の了解なのですが(阿弥陀さんほか先達軸等とネコたち連れての逃避行はムリ)、実はお寺の地盤が周囲より少々高くなっているということと出来上がった避難テラスの存在が家から動かないという「後ろ盾」になっている安心感があります。

 

その「安心感のレベルや如何に」と問われたとしてもまったくその根拠については未知。偉大畏怖なる天災にどう抗えるかなどわかったものではありませんのでかなりイイ加減なものではありますが・・・

 

水量によってその安心感など吹っ飛んでしまうものですが地盤が周囲より高い(海抜5~6mの高々1m程度の高低差ではあっても)という事実は気休めと思われましょうが自身勝手に心強さを感じます。なぜなら少なくとも水は高き場所から低位に流れるからですね。

結果として住まいは最悪の水面より高ければ被害はありませんし、それを越す可能性があればただ高い場所に移動することで命は救われるということです。

 

この海抜の低い高いに関しては、こと津波襲来の被災想定については私は何も言うことはできませんが、河川氾濫や出水害については「海の近さ」は結構に有意義かと思っています。

少なくとも直線的に海があってその水面より海抜分の高さの利を直接享受できるのですから。

それに対して山間部の周囲を山に囲まれた盆地状の平坦地や谷部は一旦流れが止まれば水は溢れ、溜まった水の排除がままならずに滞留するわけで思わぬ水没等の被害に繋がるワケです。

海岸線が近いということもメリットがあると信じています。

 

さて、昨日は19日の浜松城二の丸・三の丸の発掘現地説明会について報じられていました。

なんとその三の丸発掘現場から「曳馬城の堀跡が出た」との一報でした。

出てきた遺物が家康の浜松城より前のモノだったからの曳馬城の論です。

当日は私は法事があって向かうことができません。残念。

 

ただし予報では19日は雨ですね。順延されても土日は既にどこも身動きが付きませんし。

なにより昨日熱帯低気圧が発生。このあとどうなるかわかりません。これまでの台風発生の年平均からすればあと6つか7つ。そのうちいくつこちらに上がって来るのか・・・

熱帯低気圧発生の報は悪い報せでした。

お国はアメリカの顔色をうかがってミサイルを買っている場合ではありません。毎年毎年復旧におカネがかかりますしその額は半端ではありませんね。

 

画像は曳馬城址、浜松元城町東照宮と日限地蔵尊。

日限地蔵尊というと金谷の「日切」なる大井川鉄道の駅があって近くに日限地蔵がありますが、以前といえばその「日限」について私は「何?」とまったく知らぬ事でした。

案外全国散在していて、信仰を集めているようですね。

 

「日を限る」とは「72時間(3日)以内に」という限定ではなく「決められたその日」に限るということですね。

要は「縁日」とか「御開帳」などの類かと。

その限定された日にお参りすれば「御利益がある」という「特別性」を強調しているのでしょう。

 

それにちょっとした違和感があったのはやはり当流の阿弥陀如来の非限定性との違い。

阿弥陀さんは「一切衆生」に「摂取不捨」そして特定の者への利益など考えていませんのでいたずらに「我こそをご利益を」の感覚は「ナイ」のでした。「平等施一切」。