榑林一統 桜ケ池の八幡 佐倉法の沢 高天神崩れ 

「いいなぁ・・・50万円のスーツ・・・」てな具合で世の金欠サラリーマン諸氏の羨望の声が聞こえてきます。

関西電力の副社長様などそれを4着も頂いちゃっていたといいますから凄いですね。

他にも金貨や小判や現ナマにドル札もあの高浜町の亡くなった助役さんからの提供に「無理に押し付けられて迷惑」だったの風。

今となっては皆さんであの助役は相当の曲者(気に入らなければ「ダンプで突っ込ませる」・・・ワル)だったと異口同音の躰。

保身極まれりとはこのことでしょうね。まぁ助役氏も「そんなもの」の類であることは想像できますが。

 

ガッツリ大枚懐に入れてそれを隠し通そうとしていた皆さん方がそんなことではあの助役さん、地獄の門前で怖い顔をしてお待ち受けしているかも。「同じ穴」の貉なのか狸、イタチか知りませんが死人に全責任をおっ被せるなど「おもしれえ」根性をしています。

 

他の原発推進者お歴々としては今回の件、さっさと退場してもらって「幕引き」としたかったでしょうね。

ちなみに一切合切スーツとネクタイと革靴には縁がない私にはいくら高価なスーツをいただいたとしてもゴミ同然。まったく羨ましくなし。

私の如くの乞食坊主に毛が生えた程度の者は父親譲りの黒衣一つの着回しで十分。他の法衣も殆どがお古で3代着ている物もあったりで・・・

それに惨めを思ったか先日奥方は五条袈裟を一つ新調してくださいましたが、これは奇特なことです。

 

カネ次第の地獄の沙汰とは言いますがお気に入りのスーツは三途の川にて「奪衣婆」に剥ぎ取られてしまうはず・・・空しいことですね。どんなにご自慢のおべべを着ていても・・・です。

ひょっとして生前にそれは「剥がされる」かも知れませんけれど。

 

昨日の如く歌舞伎の台詞調にいえば、あっけらかんに晒された針のむしろの躰「ざまぁみやがれ・・・」でしょうか。

おっとそれは嫌いではない台詞ですが、江戸っ子の言葉は口汚くて失礼。

まぁ自らの「様」について日頃ぼんやりしているからそんな言葉が形容されてしまうのですが。

原発マネーの還流スキャンダルどこまで広がるか、見物です。「八幡洞ヶ峠」というワケではありませんがね。

 

さて、高天神崩れの件。

先日の法要で故人の奥さんの実家である榑林家からの参集がありました。当地で「榑林」といえば真っ先にその出自を思うのが甲州軍団。高天神崩れですね。

 

いつものというか久し振りですが「高天神の跡を尋ねて」を開けば・・・

 

榑林氏一族

天正九年三月、高天神城落城の時、籠城の武田方将士で徳川方の包囲を突破して脱出し、国安川を渉り、比木の金峯山正福寺に前華厳院五世住職南耕舜啓和尚を訪れて隠れ、其の後隣村の佐倉村法の沢に落着して帰農した榑林一族がある。

一は八兵衛氏同族十戸、一は七左衛門同族三十戸 両本家共天正年間の馬具、刀剣、弓矢等の遺品を蔵して居る。

 

とありました。

 

浜岡は桜ケ池の池宮神社の本殿の脇に「境内社」があります(画像①の→)。

そちらには地区分散していた3つの社を統合したもののようですが、そのうちの一つに「八幡神社」についての記述があります。

内容は「高天神の跡を尋ねて」の榑林の項と同様ですが、この八幡神社は元はといえば浜岡東小学校の敷地にあったとのことで、その学校建築のためこちらに合祀されていることがわかります。

 

⑧⑨は榑林氏一統が当初潜んだといわれる正福寺。

⑩は佐倉の法の沢交差点(場所はこちら)。脱出後の榑林が渡河した国安もそちらに・・「法の沢」の北に浜岡東小学校も確認できます。

 

尚、「榑林一統といえば正福寺」と言うのが今も合言葉のように聞こえています。

境内にも「榑林」の墓標が見受けられましたが家紋についてはそれぞれで統一性はなし。

当初帰農土着後50~100年は名のりをせず「一統」の関わりを隠してひっそりと暮らしていたのでしょう。

 

武田方高天神崩れの人たちの歴史は勝間田氏のそれに似て往々にして曖昧です。逃げ隠れにひっそり・・・は必定ですからね。

そんな中、こちら「榑林」氏に関しては比較的その伝がハッキリしているかと思います。

 

 

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コメント: 7
  • #1

    河東村出身者 (土曜日, 12 10月 2019 18:16)

    ご無沙汰しております。

    今川義元・氏真の書面に菊川市棚草の地頭の紅林氏を年貢未納で追放する旨の書面がでているので、昔から遠州にいて武田方についたものと思います。「高天神城から逃げて定着した」話は栗田氏や岡部氏の伝にも出てきますが、ほとんどが包囲が数年かけて完成する中での出来事であろうと思っています(高天神籠城組がいる一方で親戚の地元定着組は落城前に徳川方についていた)。神尾氏の阿茶の局の出仕時期も高天神城落城前ですから。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 13 10月 2019 09:34)

    ありがとうございます。
    そこのところ仰る通りと。
    榑林姓というものが御前崎・菊川・牧之原に集中し、他も静岡県内ばかりです。
    信州諏訪あたりから勝頼に従って・・・という風に考えたくなりますが、それでしたら信州にもその姓があっても不思議はありませんね。
    ところが遠州で圧倒的。
    在地有力家系が機を見て武田方につき敗戦の結果城を出たとするのが正論かも
    しれません。
    そもそもちゃきちゃきの信州勢なら八幡宮ではなくて諏訪神社でなくてはね。
    また氏姓の定着は明治以降ですしそれまでの姓も潜伏のための仮称だった可能性もあります。

  • #3

    今井一光 (日曜日, 13 10月 2019 09:44)

    上記追記です。
    榑林姓は都道府県別にみると静岡がぶっちぎりで多いのですが
    山梨県にその5%強の方たちがいらっしゃいます。
    甲州とのつながりは不明。

  • #4

    酒井とも (金曜日, 20 10月 2023 09:10)

    こんにちは。
    榑林姓ですが、桜ケ池地区の方のお話では、榑林姓を調査したところ、現在の山梨県北杜市や韮崎市の辺りの榑林姓がルーツとのお話でした。
    小笠原主従が高天神城を去り、甲斐・信濃などの武田家の先方衆が入城しますが、榑林一党にも同様の命が下ったのかもと推察しております。
    もしくは長篠の役を経て、高天神城の兵の増強の為の入城とも考えられます。

  • #5

    今井一光 (金曜日, 20 10月 2023 10:18)

    ありがとうございます。
    榑林姓のルーツが山梨県北杜市や韮崎市の辺りとのこと。
    在地豪族で発展し武田勢として遠州高天神に出張したグループという意見が大勢のようですね。
    諏訪神社に拘ることはありませんし・・・。
    そのルーツを上回るほど榑林姓(紅林)が増えたのはやはり遠州の住みやすさにつき元居た甲州の縁者を呼び寄せたくなるほどの優位性(天候と海産物の豊富)を感じたこともあったのではないでしょうか。

  • #6

    酒井とも (金曜日, 20 10月 2023 20:06)

    こんばんは。
    そうですね、遠州の空っ風もきついのですが、甲信の雪に比べれば・・・
    榑林姓=紅林姓 同族なのですね。勉強になります。

  • #7

    今井一光 (金曜日, 20 10月 2023 20:25)

    ありがとうございます。
    一所懸命の土地へのこだわりも戦乱による不安定が重なれば新天地を同族先達に倣って
    新天地を求めたのでしょうね。
    我ら寺関りのご先祖たちも近江・摂津からの移動の件、戦乱そして新しい為政者の不安が重なっていたかと思うところです。