駿河―甲州の「さかなの道―中道」荒れる笛吹川

佐賀県在住の御門徒さんの顔が浮かんできますが今度の豪雨による水害には驚かされました。

お住まいのある唐津の方はニュースには上がってきませんので大したことはないとは思いますが、生活と移動に関してインフラもところどころ寸断されているようで難渋を強いられていることと思います。早い回復を願います。

 

語源は不詳ですが「六角川」なる河川の流域の水浸しについてテレビ画面から連日流れていますね。

「六角」という名がつい興味深い名称だけにマップ検索をして驚きました。

一言で奇異に感じるほど蛇行する河川でした。

河川の流れというものは歴史上付け替えを重ねていることが多いのでこの形状について、素人目に見ても氾濫を招きやすいのでは・・・と思いたくなりました。

 

特に大町町の流域の流れを見て「無意味な蛇行」を感じてしまいました。

おそらく歴史上の利便と有明海と内陸との傾斜の少なさから起こる塩水逆流を防ぐ意味もあったかと思いますが、台風・豪雨・大潮などの突発災害への脆弱性は露呈したままでしたね。

 

現在となっては個別の権利関係の複雑さからその河川のショートカットは難しかったのかも知れませんが行政は少々甘く見ていたのかも知れません。

 

こういう場合、大抵はあの責任逃れの常套句、「想定外」が発せられるものですが調べてみるとあの地域の水害ときたらこれまでまたぞろに経験されているのですね。

幾度も幾度も同じように水害に遭っていたのでした。

近年は河川の拡幅に堰と排水ポンプの増設によって対応してきた歴史があったようですがやはり今回の件を見ていずれも「付け焼刃」程度の対応だったと断ぜられても仕方がないかも知れません。

 

一応これは付け加えますが、この件何も佐賀県の皆さんに言い放っているのではありません。自然に対する「人間」というものの智慧の浅はかさについて言えることであって、当地に於いて津波対応として嵩上げしている堤防についても同様のことでしょう。

 

当初「コレはついていないなぁ」と思ったことは地元鉄工所の焼き入れ油が大量流出したことですね。

その流出によって自慢の排水ポンプの使用が出来なくなってしまったのでした。油の拡散を喰いとめるための対応ですが、それが一部地域に「油まみれの水没」を強いているようでした。

 

この工場の担当者もその「想定外」の言葉を発していて、当初は気の毒な事とは思っていましたが、実はこの工場の油の流出は前例があったのですね。

1度はしっかり「ヒント」(改善の)が与えられていたのでした。その時間的猶予を無駄にしたと考えるとその咎は軽くはないでしょうね。

 

おそらく金銭的にも相当のダメージを負うことは「想定内」。

油の除去費用に汚染された住居と農産物への損害賠償、何より有明海にそれが流出すれば(堰以外に小さな水路は無数にある)恐ろしいほどの漁業従事者からの補償請求が発生する筈です。

夜間には「海に出ちゃいました」のニュースがありましたね。

 

この事例を見て低地にある焼き入れ処理など油を使用する鉄工関係の事業所は今の施設の再考が急務となったことを考えないとイケません。

私のお世話になった日本発条の横浜バネ工場なども目の前が漁港ですので今回の事例により油の流出と汚染について「想定外」の言い訳はこれで通じなくなってしまいました。

 

水より油の方が軽いということは小学生でも知っていることですが、どうしても利便優先のため管理をカンタンにしがち。

開放したままの地上設置のプール(油)などザラのようですから。

 

可動式でかつ密閉できるものを思案しないとまた同じことが起こります。まさに盲点でした。

企業の経営を傾けさせないために、各最悪を想定しておくことが真の経営者ですね。

 

さて、画像は笛吹川。

「洪水」に関して特に信玄が洪水を阻止するために構築した堤として名高い釜無川とともに人々が苦渋を味わったその重みとしてはよく耳にする川の名です。

 

「上曽根の浜は昔の舟着場」の碑はこちらが昔の物流拠点であったことを示唆しているのでしょうが、辿る道がかつての「中道往還」(なかみちおえかん)。

「駿州往還(身延道)」と「若彦路」という駿河と甲斐を結ぶ二つの街道の「真ん中」ですから「中道」です。

少し前までは「中道町」という町名がありましたが合併によって消滅。

あの合併はここでも一つの歴史を消していたのですね。

そしてこの道こそ今川と武田のせめぎ合いの道でもあったのです。別称「さかなの道」とも聞きますが要は甲州路「塩の道」ですね。

 

そちらには「那口熊蔵顕彰の碑」と付近散在のものでしょう、集められた江戸期の石塔が建てられていました。

場所は国道140号線「笛吹ライン 中道橋南詰」近くです(こちら)。画像に中道橋が見えます。

碑の解説文の通り、明治期に彼が財産を投げうって橋を架けたことが記されています。

個人レベルの発想と熱意ある活動には昔から政治はかなわないものです。「無欲」ほど強いものはなし。

 

下図が佐賀六角川の蛇行。右方向が有明海。

次に大雨が来たらオイルフェンスなどもたないでしょう。

既に国レベルでの本腰を入れた早急の対応が成されないと手遅れになる段階かと。

日本全国この件、教訓とすべき、スグに動く事肝要。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 30 8月 2019 08:51)

    先週 中道往環を歩いてきました。一部ですが・・・
    精進湖から三方分山への登り口が中道往環でした。
    道の両側は寂れた空き家が多く、寂しい道でした。
    そして結構な急坂でした。急な小川があり、大きな砂防ダムもありました。
    今の私には急坂でも昔の人にとっては普通だったのでしょうね。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 30 8月 2019 09:03)

    ありがとうございます。
    とても楽しそうです。
    お天気の日にカメラ片手に歩けば石標・石仏との出会いがありそうで。
    これからの季節、甲州路はどちらも捨てがたい。
    中道往還にハマったらきっと奥の深さを感じるでしょうね。