「センセ―って言うな」 五障三従 変成男子

昨晩22時22分頃の震度6強の地震。

新潟山形、日本海側にお住まいの皆さまにお見舞いします。

真っ暗でまだ何も情報は入ってきませんがその強さからして被害が想像できます。どうか安息にありますよう。

 

昨日朝刊の文化文芸欄に「仏典の女性差別どうする」との表題があり真宗大谷派の記事に目が留まりました。

「五障三従」の件です。

どなたであっても「平等施一切」、即ち往生極楽は間違いないという宗旨でありながら「女はダメ」を一言でいうその「五障三従」の文字が仏典をはじめ、時代がくだった蓮如さんの御文にまで記されていることは了解しています。

 

それは現代の考え方(男女は平等)から大いに逸脱しているので、「みなさんどうするの?改めてはいかが?」との問題提起です。特に記事にもあった「変成男子」のところなど無茶苦茶と思える捉え方、表現ですからね。

「なんば花月」あたりではお笑いのネタになるところかもしれません。

そしてまた先日記した、「肉付き面」や「大蛇済度」、特に「蛇」という醜い煩悩の権化として描かれるのもいつも「女」でした。

 

私もたくさんの御文を拝読したい・・・と気分次第で法要の締めとして紹介していましたが、特にその文言のある御文の場合、実際はその言の意味を知っている方はほとんどいらっしゃらないとは思いますが、敢えてその語を単独で引っ張り出して詳細解説したものです。

気分次第での拝読ですので最近は別の御文を好んで使用していて大分そちらはご無沙汰していますが、私の考えとしては殆ど記事にあったように「気分を害する人」がいるとは思っていません。気分を害するというのは拝読の気構えによるのでは・・・

 

私がその語の記述に対して違和感を持つもののその経典拝読に関して別段抵抗を持たないのは、それはあくまでも経典に記されているという事実があるということです。

 

それを敢えて隠し立て、今の政治世界で行われているように都合が悪くなると「無かったこと」にするような気がし、そうあったとしたらよほどその風潮に違和感があります。

そして何よりもそこには経典にも記されているように私たちやご先祖が歩んできた社会の歴史の事実があるからですね。

 

歴史というものを忠実に紹介して解説、理解していただくことは大切です。

今の状況からあり得ないような記述があるからといって削除したり「触れない」ことこそ本当の歴史、人間社会から逃避していると言わざるをえませんね。

 

私が前回それを法話で提示したのは亡き高齢の女性の若い時のご苦労について回顧する際に触れさせていただいていました。

その方は大正初期に生まれた方でしたがその思想は家と社会の「当たり前の感覚」であって要はつい最近まで世に蔓延していたものですからね。

その語を公表し、永らくそういった時代があったということを発し、それを提示することによってそんな社会の構成員であって心底そういった思想が心のどこかに「微塵もない」ものなのか反省し、「あってはならないこと」を確認する材料にすればいいのです。

その丁寧さを怠っているのがイケないのでは・・・。

そのように考えます。

 

さて、「ママっていうな」(→上記「変成男子」リンク)は忘れもしない名古屋城の人混みの中で私が奥の墓道氏を呼び止めるについ「ママ」と呼んでしまったこと。

家中奥方を呼ぶときは「おい、ママ」が染みついていてあの時久し振りに彼と外出してつい誤ってその呼びかけをしてしまったのです。

衆人は一斉に「オレをジロっと見た」と彼はイラついていました。

 

奥方は野球帽を被ったオッサン風も「十分あり得る」としてニヤニヤしそれを気軽に使うと「ママっていうな」というのが当家のならい。蛇足ですがこの「ママ」とは「カウンターの中にいる人」の総称。時に男女関係なく・・・でしょうか。

 

そして今、「あり得ない」と奥方と顔を見合わせ二人で口にしているのが「センセっていうな」です。

しばしばその「センセー」はお医者さん以外の職種に使用される場合、「半分オチョくってる」と思われる言葉のよう。

国会議員のセンセはその語に悦に入っているようでそれならそれでまだよし。

 

ところが私もその呼びかけをされることがありました。

私の場合葬祭場で呼び止められる場合のそれは聞き流さずに「カンベンしてくれ」と特に敢えて制止したものです。

よって最近は私への呼びかけは地元では「住職」に「御」をつけて呼んでいただいていますが東京あたりではそれが無難なのかいろいろな場所で使用されています。

 

その「センセ―」ですが、先日息子が横浜で葬儀社の建屋で法事を行った際、そのフレーズでもって声掛けされたそう。

息子は先日帰ってきたときに「センセ―って言われちゃった」などと言うもので奥方とひっくり返ったのでした。

 

まぁ「結構に成長しているのか・・・」という喜びも内心あったのでしょうが「それは半分オチョくられているんだ」と戒めました。それに慣れると当人にも悪影響が出かねませんので自重しできれば「センセ―っていうな」が正しい作法と言って聞かせました。

 

まぁ「センセ―」も最近は医者以外はもしかして「マヌケの称号」なのかも知れません。

だいたい22歳の小僧が「センセ―」であるワケがありませんから。何のセンセ―なの? ですね。

坊さんという職種が「センセ―」と呼ばれることに超絶違和感があります。

 

呼び方をもう少し研修する必要がありますね。私からすればそれこそ差別用語で不快。

不快の取り方は人それぞれではありますが。

 

画像は「さぁ日没」と夕刻に門を出る際の不思議な光景。

一瞬間、何の事?と立ち止まってしまいました。

あたかも「無量光」を示唆されているようでもありますが、寺の標柱が夕日に反射しその彫りの影がお隣の墓地の塀に写されている様子。

阿弥陀の光明はいたるところに注がれているというところですが、果たして私そのものへの光とその影、どういうふうに映り反映するのか・・・すべて私次第でありましょう。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 19 6月 2019 11:43)

    一光さんも何と呼べばいいのか
    住職、ゴジッチャン、おっさん、イッコウ、カズミツ・・・でもセンセイはないね。
    先日の出雲、足立美術館の足立全康さん、門徒でした。
    座敷に金仏壇が鎮座してました。
    親しみを覚えました。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 19 6月 2019 19:17)

    ありがとうございます。
    ありがとうございます。
    センセ以外でしたらどちらも有難いことです。
    それにしてもそちらの美術館とは渋いですね。1泊では勿体ないような気もします。
    今のところ余程の踏ん切りがつかない限りそちらまで足を伸ばすという
    気持ちになれないところです。
    実は来年ですが史跡研究会で「松江に行こう」という提案がありました。
    結構皆さんのり気ですので実現しそうですが、候補に上げられた5月はお寺のバス遠足があるので変更をお願いしたところです。

    遠き見知らぬ場所へ向かうのは楽しくてわくわくですので私もいよいよ行きたくなりました。