「光明普照」扁額は愚岳 大谷暢顯25代門主

「一人で死ね」論の賛否について色んな意見が交錯しているようです。自死の道連れにアカの他人、自分より弱いものなど卑怯道の極みをもって社会に反抗アピールをしてから死ぬ人に呼び掛ける言葉です。

 

そもそもすでに加害者は亡くなっていますので、勿論その「当事者に」ではなく「その道を辿ろうとする者たち」への言葉なのでしょうが、私が感ずるその意図とは、ハッキリ言って「大衆迎合」の際たるもののよう。

物事には合理的数式のようなものがあって、その件「大衆迎合」風チョイ過激な弁を吐く人=「人気取りのペテン」と解しています。

 

政治家や芸能人に多い傾向ですが、その言葉の意味よりもその手の「お調子もの」を発した人間に対しての疑問を感じています。

だいたいそれは「自死」というものを選択せざるを得ない人たちの精神状況を汲めない狭量さを晒していますね。

誰もがそこのところ(他人を巻き込むな)は感じるところですが、そのような事を言い放ったとしてもまったく無意味。

まるで自分はじめ経済的にも肉体的にも精神的にも健常な者の物言いで、いかにも高ビー、むなしさをも感じます。

 

人は色々なカタチで追い詰められ、絶望の境地に陥るものなのですが、その件を知らぬ天狗の如くの物言いがされて驚くばかり。

ギスギスした社会をこれ以上好き勝手に盛り上げないでいただきたいものです。

その人たちは人生「オールOK」なのでしょうか? むしろ心配してしまいます。

 

今回の件でいよいよそのような子供を抱えている親たちの心の方も追い詰められたでしょう。当然に年齢を重ねての近い将来のこと。にっちもさっちも行かないところですので。

するといよいよ「何とかしたい」という気持ちが先だって日頃は言いたくても言えずに堪えていたことをここで一言二言(外に出ろ・・・仕事しろ・・・等)とぶつけてしまいます。

その反発が家族に怒りとして向かい悲劇を生むなどいうことは多々ありますからね。

 

何度も記していますが、社会の「思いやり」が欠落しています。

被害者にその関係者へのそれは当たり前のこと、加害者はきっとその「大事にされている」ことをかつて感じたことが無かったのでしょう。

家族からも友人・社会からも。

加害行為は全否定することは当たり前ですが加害者も社会的弱者であったことを忘れてはイケないということです。

 

画像は東本願寺(真宗本廟)参拝接待所に掛かる扁額。

「光明普照」阿弥陀さんの作用。だれにも平等にあまねく照らすということですね。

そして御影堂。

蛇足ですが扁額の書、現門主さんは今度の新設、上皇の従兄弟にあたります。