慳貪(けんどん)の 口にあまりし 嫁菜哉

昨日はNHKスペシャル「不登校 44万の衝撃」を視聴。

「ひきこもり」について連日記してきましたがその「不登校」とは「ひきこもり」に至る予備的状況で、これも放置できないこの国の課題です。その不登校のこれまた不登校予備軍という子供たちが増え続けているといいます(中学生の不登校~年間30日以上欠席~11万、隠れ不登校33万 8人に1人の割合)。

 

学校に行かない・行けない理由は登校しても子供たちに「居場所がない」ということですが原因は一律ではありませんね。

友達がいなかったり、いじめがあったり、何かとコンプレックスを抱いたり、人付き合い、集団行動が苦手だったり、競争比較の世界が嫌だったり・・・それぞれです。

そこを人と違う、何故できない・・・ということでこれまでの学校は「指導」し、友らは見捨ててきたのでしょう。その結果がこの数字に結び付き、またその先の「格差」に繋がっているというところでしょうか。

 

教育を受けない、その機会を享受しない・できないということはその将来への道、職業の選択肢が狭まっていよいよ社会に「居にくく」なってしまいますので。

何とかそういう「選択」(登校したくない)も「アリ」であってそれぞれの「居場所」を作っていただきたいものです。

やはりそれも国が率先して動かなくてはなりませんね。

 

さて、「嫁おどしの面」の願慶寺の住職の法話を聞きましたが、その時いただいたパンフの中に「肉附きの面に題す 句仏」とあって一句記されていました(句仏さん→   )。ただしその句に関しては某所によると加賀の俳人「千代女」の作と記されています。

 

「慳貪の 口にあまりし 嫁菜哉」

 

慳貪(けんどん)とは「けちで欲ばり」「無慈悲」「愛想がない」ことを意味しますが、よく日常言われるのがその2字の頭に「突っ」をつけて「突っ慳貪」(つっけんどん)ですね。

 

義母の性質の「慳貪」と嫁を嫁菜に準えての句なのでしょう。

「嫁菜」は食材にならないことはないようですが、欲ばって口に頬張ってもそううまいものではなさそう。

 

どちらにせよ「慳貪」とは仏の作用とは正反対の「思いやりの欠如」と言っていいでしょう。

学校にしろ会社にしろ社会にしろ「他者多種多様色々について」その思いやりの心が発揮できれば現代の不登校にしろひきこもりにしろその解法に繋がるのではないでしょうか。

 

ツバメの繁殖の季節。

最後の画像はツバメが商店のガラスの表裏で睨めっこをして遊んでいる様子。自動ドアの開閉に合わせて内側と外側に分かれて睨めっこ。

ツバメは人の近くが絶好の遊び場。面白い習性を見させていただきました。

これから出てくる蚊どもをたくさん食してください。