1と5と9 増上寺の黒本尊前立本尊 阿弥陀仏

他の諸仏たちには申し訳ないことですが、当流は「一向専念阿弥陀仏」。どこかに阿弥陀さんがいらっしゃると聞けばやはりそのお顔と容姿を拝したいと思うのが心情。

しかしながら、まぁコレは本来の意味での「南無阿弥陀仏」の信心ではなく、仏像・・・モノとして具現されたカタチの鑑賞ですから宗教というものとは離れています。

 

よってそのカタチについて「イイ・ワルイ」の評価がくだされるべきものではありませんが、どうしてもその評価の基準というか物差しのようなものが小さいころから私の頭の中に出来上がってしまっています。

それが世にいう「仏の印」。

座っているか立っているか・・・これはやはり立っている方。

要は私が小さい頃から睨みをきかされている本堂の阿弥陀さんのそれですね。

 

その印については私は「OK  OK」の印と呼んでいますが、実は「来迎印と摂取不捨印」と呼びます。

最近の当流思想の変遷では「阿弥陀如来の来迎はない」(お迎えに来ない)ですので今の拙寺の阿弥陀さんのような印(OK OK)は一言で「摂取不捨」の方が前面に出ていると考えるのがスジですね。

 

その「摂取不捨」の語は困窮・絶望の衆生にとってはこれほどうれしい恩恵はないでしょう。

「諸行無常・是生滅法・生滅滅己・寂滅為楽」の人間界にあって「私はなにも悩むことはない」という御仁はそうはいらっしゃらないでしょうから。

そこのところすべてを阿弥陀如来は「わかった」と合点、了解してくれて、「お前さんを絶対にすくい取るからな」との強いお約束をしてくれている印ですからね。

 

特に私の如くの欠陥坊主にとってはこれ以上ない仏、まさに阿弥陀仏の中の阿弥陀仏なのです。

といっても「南無阿弥陀仏」は一つですからやはりこの視点は仏像のカタチとこっちの視覚の差異か・・・。

阿弥陀如来に「違い」などあろうはずがありませんしね。

 

ちなみに「来迎しない」は「既に今ここにおわします」からですね。また「来る来ない」の件は「信心」のことと言っても。

 

さて、先日3-5-7・・・の如く割り切れない数字の文化について記しましたが増上寺にもその手のものを見受けました。

こちらには家康の守り本尊との云われのある「黒本尊」と呼ばれる阿弥陀さんがありますが、そのご本尊の御開帳の日というのが決まっていてそれが年間3日間のみ。

それが1月15日・5月15日・9月15日。

ということで「正五九祈願会」(正は正月)と呼ぶそう。

その縁日の理由についてはわかりません。

 

よってそのお堂にはその他の日、362日間は「前立本尊」がその代わりに立っています。

本尊が隠れている場合その「前立」というピンチヒッターが立つことが多く、「御開帳」のある仏さんの場合その例は各所にありますね。

真宗では本尊そのものが方便であって南無阿弥陀仏が仮の姿として表れていると解釈しますので、この前立本尊は「仮の仮」ということになりますが・・・

まぁその手のことはともかくとしても、その3日でなければ尊顔を拝することができないというのも「摂取不捨」の印とは外れてしまうような気がします。

 

 

③と⑤の左の女性像が皇女和宮。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 28 3月 2019 09:15)

    今朝は4時からラジオで小和田先生の講演会の再放送がありました。
    私は4時20分で出かけるのではじめだけ聞きました。
    題は「大河ドラマにおける時代考証」でした。
    浅井をアサイかアザイか説明していました。
    もっと聞きたかったけど断念して出かけました。
    ラジオで聞いても小和田先生の話はわかりやすいですね。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 28 3月 2019 18:42)

    ありがとうございます。
    お出かけ時間はあいかわらず早いですね。

    小和田先生のお話はその内容は勿論、声の質は特に聞きやすく
    話術という面でも一流です。

    明智ブームが起こりつつあります。これから先生も忙しくなってそのお話を聞く
    機会が増えるでしょう。