塙直政が大和守護 多聞城へ 城郭大系から 

大分暖かくなって短時間外に出る際には上掛けは不要になりました。昨日は風もなく雨によって温かさを感じたわけです。

しかし週末3連休はかなりの寒さになるそう

トランプが米国の寒波に「温暖化はどうした!!」と吠えていましたが地球規模のちょっとしたブレでごちゃごちゃ言うな・・・ですね。それにしても酷い寒さの様ではありますが。

まぁあのような氷の世界(北米)とはまったく縁のありませんこちら南遠江です。

 

さて、多聞城(  または )は現状学校施設のため「御用覚悟」ならともかく立ち入りはできませんね。

昭和23年に若草中学の建設によって殆どの城塞遺構は整地されてしまったのですが、それ以前はといえば逆に城の地形が良好に残っていたといいます。

北縁に土塁が残っていたそうですが昭和53年の校舎新築工事によって破壊されてしまったようです。

よく見る画像では校舎を建てるために外構部を掘り固めているようでそれを土塁と見誤るかも知れません。しかし各所に石が底部に見られるのですが・・・。工事の盛り土なのか「掻き揚げ」なのかは判定不可。

 

工事による消滅は勿体ないというか惜しいという気持ちがしますが、その辺りの感情はどちら様よりも今、奈良市の観光課ほか関係者の皆さんが地団太を踏むような気持を抱いているかも知れません。

奈良中心地にあって眺望も抜群、貴重な歴史遺構として奈良異色の観光資源として活用できたでしょうね。

松永のネームバリューもなかなか。

 

それにしても松永久秀は信貴山城と多聞城と名だたる二城を持ち大和の支配を固めたというところ、一時期ではあったにしろその勢力の大きさがわかるというもの。

大和支配者・・・王としての城館として南向きに見下ろしていました。

何と言ってもこの地はこれまで興福寺の息がかかる領域でその支配力は絶大かつ一筋縄では行かない、経営には難しい地でしたから。

 

その権勢も長くは続かず松永が1回目の信長への反旗の際はこの多聞城を信長に明け渡して信貴山城に移ることになります。

そのあとの多聞城には明智光秀や柴田勝家が順繰りで城番として入っています。

天正二年に信長が来てあの蘭奢待を家臣に振舞っていますがその翌三年、大和守護として塙(原田)直政が多聞城主として入っています。

 

塙(原田)直政が歴史から姿を消すことになったのは石山本願寺攻めでの鉄砲被弾による討死のためでした。

石山軍記ではたしか<原田>だったような・・・

 

<原田>とは名家を継承させるために下賜されたものでもとは「塙」です。この字を見て塙団右衛門(塙直之)を連想しますが、やはりその関連性は説としてあります。

珍しく、そう多い名ではありませんので結び付けられるのも当然かもしれません。

 

ここで、「城郭大系」から少々転記させていただきます。

まぁ世にあるその城についての記述はここから持ってきています。

「東西の丘陵続きを堀切、その堀を北へ回して丘を取り囲み、南は佐保川をもって堀に代えているので、総構の平山城となっている。

~丘上の主郭は本丸と伝えられ、長さ140m、最大幅120mだが中央から南へ突き出した長さ50mの三角形の部分は一段低かったようである。二度にわたる校舎建設時の調査で、丘上は元来平坦で築城時にあまり大規模な削平工事はなかったと見られている。

おびただしい量の石塔類を投入して、暗渠の排水溝を縦横に設け、盛り土の土塁の基底部の地固めに石塔を並べ、その上層に瓦敷きを設けていた。

建物跡には基礎として用いた石造遺物類の列が検出されているが、遺存状態が悪く、建造物の規模はわかっていない。

井戸は一カ所だけ、直径5mもとの深さ4.5mほどの円形素掘り跡が検出された。

また、諸所で石材の抜き取り跡がみられる・・・」

                     とのこと。

 

天正七年に石垣を持ち出したという記録があるようですが、昭和まで急斜面にもかかわらず土塁など遺構がよく残っていたことから当初からそれほど多くの石材を使った「石垣」は築かれていなかったというのがその見解でした。

尚「南に突き出した・・・」の部分、現在墓石が並べられている場所でしょうか・・・

 

画像はその城郭大系から転写。

②の発掘現場のプレハブ横に俄に積まれたであろう五輪塔が見えます。③は②の暗渠の排水溝に使用されていた石材でしょうが、五輪塔の傘(火輪)のようですね。

あの形状のものは「コマ」といって現代でも擁壁や地盤安定のために使用されています。

④井戸⑤は軒平瓦。この時期に瓦屋根というのもその使用に建造物の威容が伝わります。