高天神城からの矢文 信長朱印状 小山と滝坂(境)

昨日は夜になると風が吹きまくって冷えましたが昼間は気温が上昇、好天にも恵まれました。

私は以前ブログでお知らせした小和田先生の講演会会場の小笠山運動公園へ。

先生もスタジアムもまさに久し振りの対面でした。

 

前回はWカップでしたから2002年。スタジアムの方は、その大きさにあらためて圧倒されました。

このスタジアムそのもので人を集めるとなると45000人収容となるようですが、この広いハコで講演の会場を迷った方が続出したようです。

先生は「まさか私がスタジアムで・・・」と「45000人はムリ」などと冗談を言っていました。

 

講演の会場の名称は「エコパスタジアム レセプションルーム」なる部屋。おそらくVIP専用の特別観覧席で私が二度と立ち入りできる場所ではないでしょう。

当然の如く最前列中央を陣取ってお話を拝聴しましたが、空調と熱気で半袖になっていたほどです。

 

さて、かねてから、私は相良の新旧滝境城(   )の整備について「何とかならないものか」と思っていますが私有地でなかなかその手のことを進めてもらうのは難しくこればっかりは市の方向性と合致しないとムリです。

しかしまぁ地道に声を出していなくては始まりません。

 

その相良(城)ではなく滝境に主軸を移しても・・・という根拠は天正九年の武田方高天神城(第二次高天神城の戦)攻めの終盤、井伊直政の間諜(忍び・スパイ)の上出来、水の手を切る快挙(寛政重修譜家譜 当日資料)があって「勝負あり」。

戦闘継続不可能に陥った籠城(武田)方730余名は切死覚悟で城を雪崩れ出ました。それが天正九年の三月二十二日のこと。

 

その正月に信長が水野忠重に宛てた手紙(「静岡県史」資料編8 中世四1370)あります。

その日の先生の資料に掲示されていましたが、こちらは信長が家康に開城の際の手引き書としてその心中を伝えたものですね。

要は「そろそろ矢文が来る頃」を見計らってのタイミングですが、その年の正月の二十五日に記されたものです。

ちなみに水野忠重は家康の叔父で信長による信頼もあってこの戦闘の軍監という立場かと。

 

城から「矢文が飛んでくる」というのはまずは降伏の意思表示ですね。そんな時、攻め方としては余計な戦闘をするよりも既に勝負が決まったということで、「責任者」のみ腹を切らせて「他は許す」というのがスジ。少なからず攻め方も消耗疲弊しますから。

 

ところが信長は家康に対してその際は「矢文は無視しろ」のお達しをしていたということ。

 

勝頼は第一次(高天神城の戦い)で籠城組を許したにも拘わらず家康がそれを許さず徹底殲滅の処断に至った理由がこれです。

多聞城と違ってお宝の期待もなく城を焼くことに何らの躊躇はないことは確かですが、信長の一考は以下。

 

言葉のポイントとしては複数回出てくる「後巻」と「外聞」ですね。

「外聞」はそのまま「人聞き、他者の評価」で「信用」に関わること。「後巻」は後詰のことですね。特にその「外聞」こそ肝要の事よく伝わります。

現代にいたってはそれを嫌う傾向がありますが戦国期のスタンスとして基本といえば基本ですね。

 

 

こんなところでしょうか・・・

「城内迷惑(混乱)によりそろそろ矢文で降伏の音をあげるころだ。しかし今、高天神城一つを攻略成功させたとしても勿体ない。得るものは一城のみだから。それよりあとの二つ、滝坂(滝境城)と小山城もいただこう。

それには「後巻」(後詰 救援)ができないで高天神城兵を見殺しにする勝頼の躰と大将としての外聞を駿河の隅々にまで響かせられたら・・・この件を家康に物語して家臣内にても談合せよ・・・」(他の駿遠の武田方の城兵たちも軒並み武田を捨てる)ですね。

私はその信長の文書に相良の名称が出ず、滝境と小山という地を高天神との関連性の高さという点で挙げているところが面白いと思ったのでした(「三カ所可渡」)

 

戦国期武田の「相良城」とはいうものの武田の相良とは高天神城へ兵糧を集積させる砦程度のものだったのでしょう。

それではその水野文書を転記いたします。

相良史料館にでも赴いて写メしてくれば済むものですが「滝境」の名をしっかりと提示したかったため、転記しました。のちのち引っ張りやすい備忘録としての意味合いもあります。

よって転記ミスあるかも知れません。

 

天正九年正月二十五日 織田信長、水野忠重に、降伏を申し入れてきた武田方の遠江高天神城等の処置について指示する

 

織田信長朱印状 水野文書(「静岡県史」資料編8 中世四1370)

 

「切々注進状被入精之段 別而祝着候 其付城中(城飼郡高天神城)一段迷惑候体 以矢文懇望候間 近々候歟 然者命を於助者

最前者滝坂を相副 只今ハ小山をそへ 高天神共三カ所可渡之由 以是慥意心中令推量候 抑三城を請取 遠州内無残所申付

外聞実儀可然候歟 但見及聞候体ニ 以来小山を始取懸候共 

武田四郎(勝頼)分際にてハ 重而も後巻成間敷候哉 以其両城をも可渡と申所 毛頭無疑候 其節ハ家康気遣 諸卒可辛労処 

歎敷候共 信長一両年ニ 駿・甲ヘ可出勢候条 切所を超

長々敷弓矢を可取事 外聞口惜候 所詮号後巻敵彼境目へ打出候ハ 手間不入 実否を可付候 然時者両国を手間不入申付候 

自然後巻を不構 高天神同前ニ小山・滝坂見捨候ヘハ 以其響駿州

之端々小城抑候事不実候 以来気遣候共 両条のつもりハ分別難弁間 此通家康ニ物語 家中之宿老共にも申聞談合尤候

これハ信長思寄心底を不残申送者也

 

  正月廿五日         信長 印文<天下布武>

 

  水野宗(惣カ)兵衛<忠重>とのへ   」

 

画像は「エコパスタジアム レセプションルーム」から。