山上憶良 万葉の銀・金・玉 再考と時論 沈痾自哀

先般「年が明けた」とぼけほけしていたらいやはや立春の声。

春の来るのが待ち遠しい、早く温かくなって~など口にしていましたがいくら何でも「あっという間」すぎです。

 

時が経つという現実は「待ち遠しい」などといういたって前向きなスタンスがある一方「後のない」、蝋燭の火でいえば「あとちょっと・・・」のところにしか感じられない余命の私からすれば時の流れというものはもはや恐怖でもあります。

 

例の一休さんの「門松は~」の歌にしろ彼の臨終間際の「死にとうない」と伝わっている言葉にしろ一般の方たちが理想としていそうな「坊さんの達観」とは少し異にするところは好感が持てます。

それは・・・生きていればやることがたくさんあるから・・・ですね。

逆に言えばやること、やらなければいけないことが多くあるということ・・・生きながらえなくてはならないのです。

 

いずれにせよ浄土に向かうことは決まっているのですから、その時までは「生きたい」と前向きに。

「生は貪る可し 死は畏(お)づべし」(生は貪欲に求め、死は畏れるべきもの)が正解なのかと。

 

さて、先日記した山上憶良の子を思う歌の追記。

その「生は貪る可し~」の語は山上憶良が74歳頃に亡くなる直前に記した文といわれる「沈痾自哀(ちんあじあい)」にあった語でもあります。

 

「沈痾」とは「長患い」のことですが山上憶良は晩年まで約10年間、原因不明の病に悩んでいたのですね。

 

憶良の生きたその660~733年頃の時代、彼が想う「病と老」について、そして宗教観、当時の医術呪術についてとても興味深い記述でした。

10年も病に苦しんだ人ならではの(恥を忍んでの)述懐で、人間らしさが垣間見られます。

ご興味のある方はグクればスグですのでこちらでは割愛。

 

ということで、より人間的というか子煩悩の父を思わせる「銀も金も玉も~」の歌についてふと思いつていた事がありましたので追記いたします。

銀も 金も玉も   何せむに

           まされる宝

               子に如(し)かめやも

 

その時ブログには何気なくその歌を聞いて思いついた事を記しました。

「銀・金・玉」とはあらゆる今風「金目のモノ」のことですね。

よく考えればどうも唐突にも感じられました。

はたして当時の役人、山上憶良の周囲にそれらの「銀・金・玉」があってましてそれらを望むような環境にあり、なお子供の存在と比較するという歌の安直な題材にするだろうか・・・という点です。

よくよくその件、親としてあれば当然の発想で(歌として)表現するまでもないことであるとも。

 

そもそも山上憶良の歌風から推測する彼の性質から単純に我が子の比較とはいえ「世にいう一番金目のモノ 欲の対象」を羅列して記すことがあろうかとも考えたわけです。

現在の「お金が一番」の思想が蔓延している社会にあればそれこそ心に響くものがあるのかとは思いますが・・・

 

私がふと思いついたのは昨日の法要で拝読していた阿弥陀経の中です。

阿弥陀経は経典中「浄土の荘厳」を記しているものですがその中には浄土がいかに素晴らしい「望ましい所」かを表現するにあたり数々の金銀財宝に溢れていることをそれら列挙してが記す部分があります。

下世話な表現ですがそれら「金目のモノ」(お宝)の並びを拝読していて「もしかすると・・・」とひらめきました。

 

先日も記しましたようにその歌(銀も金も玉も)には「反歌」と添えがありましたがその添えには釈迦十大弟子の一人の羅睺羅」が登場していました(その出し方も少々唐突に感じました・・・)。

 

その「沈痾自哀」にも「三宝を礼拝して、日として勤めざる無く」と記されているように彼が仏教に造詣が深くその理解者であったことがよくわかります。

ということでその「銀も金も玉も」の部分はまさに極楽浄土そのものの比喩ではなかったのかと感じたのでした。

 

「極楽よいとこ一度はおいで」のキャンペーンではありませんが、阿弥陀如来主宰の浄土というものは「すばらしい」ところであることは阿弥陀経に記されている通り了解しているものの山上憶良は我が子の成長を見届ける前に、そちら(浄土)に向かう(死ぬ)ワケにはいかない・・・というところ、心中にあったということを特に思ったのでした。

要は「生きていてこそ」「我が命あってこそ」なのですが歌は

子を思うが故「私の死」というものを意識してのものだったということです。

そして「子供そのもの」=「自分の命」であるということを歌いたかったのかと・・・

 

「浄土へは行くべきところとはわかっているものの今本当に私にとって大切なことは我が子(私のいのち)である」

                  (by 墓場放浪記 意訳)

 

これを法律学的には拡大解釈という風に謗られるのでしょうが「歌」の世界はより深いものがあって共通認識は不要。

私は勝手にですがその歌はそれほど単純なモノではなかったのかとも感じました。

 

昨日はその私の思いつきについて即席ですが法話で触れさせていただきました。

 

①こちらも阿弥陀経より。

ズバリ浄土の荘厳が・・・「金銀瑠璃」以下通称「玉」と言われる宝の名が。

何と言っても「黄金為地」、黄金色に輝いている大地ですからね。

③④は雨の降る前の午後、久し振りのお誘いにより海に出たところ。昨日までの風と低温がウソのようなくらいの穏やかさと温かさでした。

 

16時頃からぽつぽつときて以降久し振りの雨となりました。

大した強さはありませんでしたが世に蔓延している悪いもの(インフレエンザ)をざーっと洗い流していただきたいものです。