多聞城は元墓域 墓石ゴロゴロ

昨晩のテレビ小僧は歴史秘話「山城~」。

七尾城のレーザー測量の検証、曲輪と堀切の関係は面白すぎでした。それぞれの家臣たちの砦と本丸の位置関係(大堀切で隔てた)から主は家臣と並列的な対等関係であったことがわかったそう。

その手の初期戦国の築城方式は各所(浅井氏小谷城など)に見られるとのこと。

 

その「並列」から主従をハッキリさせた築城の初めが小牧山。

要は信長からだったと・・・

 

 

さて松永久秀が主君三好長慶の命によって建てたのが多聞城。

昨日の続き。比高は30m、平山城ですね。

三好長慶の場合は大和一国を松永に任せていますのでここでの主は松永。

 

世の城郭建築に連続した長屋式の櫓を「多聞櫓」と呼びますがその「多聞」の発祥がこちらの城からでした。

また松永のこの城への思い入れは深く、城郭の建築も城主の生活と戦時防御の砦的司令塔としての恒常的堅牢さを求め、今誰もが思う「城郭」・・・「城」・・・天守閣のある・・・のイメージを確立したというのがこの多聞城ですね。

 

「高矢倉」なる「四階櫓」の存在の記述が残りますがそれが天守閣であったという説もあります。建築物外装だけでなくその内部も豪奢を極めたともいいます。

 

信長が例の正倉院から持ち出した蘭奢待はこの城にて焚かれたといい、信長がこの城の作りと松永のセンスに驚いて安土築城のヒントとしたことも推測できます。

それが松永久秀が1度目の謀反で信長に許された所以ではないでしょうか。

 

この城(場所はこちら)の面白いところは築城以前は寺と墓地だったというところ。聖武天皇の陵墓などもある高台です。

それら墓石を築城時に柱の礎石にしたり土塁石垣に使用した形跡があるようですが、現在の若草中学の建築に際してかなりの量の墓石が出土しているようです。

 

この城が破却されたのは信貴山で松永が討死したあたりの天正五年頃でしょうが城郭主要部分は勿論、礎石石垣も他の城の建造の部材として転用されています。

ひょっとすると安土城のあの一本道に散見された石仏たちもこちらから運ばれているものがあったのかも。

 

①はまた一株、梅一輪。拙寺本堂前です。他にもぽつぽつと・・・