遺構は殆ど連想の域 高野瀬城址標柱とバス停

昨夕の熊本地区の震度6弱の地震、お見舞い申し上げます。

新しい年の初めに、お気楽気分も吹っ飛ばされる自然の気まぐれ。遠い遠州の沿海に面した場所に住まう私どもであってもその自然現象には敏感です。

余震の再発も十分あり得ますので十分にご配慮くださいませ。

 

さて高野瀬の天稚彦神社付近は高野瀬氏館の中心地となりますが、その高野瀬氏の城館址を指定する石柱のある場所は少々離れた場所にあります。

豊郷駅伊藤忠兵衛記念館から西方にあたります。

天稚彦神社の社殿裏方向の田圃の向こうに高野瀬公民館があってその周囲の様子が何らかの「遺構」を想像させますが、その石柱、といってもかなりちっぽけなものですが、その城の存在を提示する標はその前の細い道を入ったあたりにありました(場所はこちら)。

 

近江愛知郡誌に付されている昭和三年の踏査図にはしっかりと残存遺構の存在はうかがえるものの現在はほとんど不明(日本城郭大系)。

「城主高野瀬氏は愛智氏の支流で、鎌倉時代から愛知郡内に居住していたようであるが、その詳細は不明であり、同時に、いつ頃当城が築かれたかも不明である。」(同大系)ということで謎の城址となってしまっているということですね。

私は何度かほっつき歩き、数か所ある竹藪等も覗いてまわりましたが、水路と言えば水路、溝といえば溝、土塁と言えば土塁・・・といった感じでハッキリと断言できそうな遺構は「わからない」というのが本当の所。

 

大系より追記すれば

「ただ高野瀬氏は応仁・文明の乱の際、京極氏に従って細川勝元に仕えていた。また、享禄二年1529には佐々木定頼の女が細川春元に嫁するときの使者として高野瀬家澄がその任にあたっている。大永五年1525佐々木定頼は浅井亮政を江北に攻めた時、伊庭・久里とも対立していたことから苦境に落ちて細川高国の支援を請うことになったがその際、この城に滞留していた」

とあります。

多賀神社文書にはその際の城主として「高野瀬備前入道」や「七郎右衛門」の名があるとのこと。

 

①画像は豊郷側とは逆側、国道8号線からの入路。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 04 1月 2019 09:43)

    おめでとうございます。本日から通常です。
    歳旦祭でIさんと隣の席になり、除夕の鐘の人数を聞き驚きました。
    盛大は大変良いのですが、繁盛しすぎのような・・・
    家の近所にピアノの稽古、声楽の稽古をする方がおります。
    旋律を奏でるなら音楽ですが練習は音楽ではありません。
    騒音です。雑音です。
    寺の鐘も300回以上となると大丈夫でしょうか。
    あるいは、ご近所さんに優待券等を配布し、現状を見てもらうとか
    知ってもらうとか。
    苦情を言われる前にぼちぼち考えた方が良いのではないでしょうか。
    以上 戯言です。
    今年もよろしくお願いします。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 04 1月 2019 09:56)

    ありがとうございます。
    今年もよろしくお願いいたします。
    鎮静化するのかと思いきやおかげさまで盛況でした。
    今のところ「仕方ないなぁ」というところで大目見ていただいているようです。
    前回は回覧でお知らせしていましたが今回はすっかり失念していました。
    次回はしっかりとした告知とお詫び、何よりご招待のお知らせをしたいと思います。