一昔前は田舎の景勝地 新宿 その前は湿原

自動車の走行距離に応じて課税しようという方向があるようです。財務省の「取れるところから取ってやる」風いつもの机上で算数式を描いた短慮でしょう。

 

拙寺檀家さんで品川在住の方がいらっしゃいますが数年前に「車を持つ意味がないということに気づいた」ということで愛車を処分されたといいます。

お住まいの近くにはJRから私鉄、地下鉄にバスと移動手段としての選択肢は豊富。ひょいと遠くに自在に動く際はカーリースにレンタカー等を活用すればいいとのことでした。

これによって車の維持という家計を圧迫するウェイトの高い厄介な難題がクリアできるということです。

都内は駐車場を借りるだけでも高額出費を覚悟しなくてはなりませんからね。

 

ところが私ども遠州でも辺鄙な地、相良在住の者となると車での移動が基本でそれを手放す事などは考えられません。

何せ鉄道の類は一つもあらず。下手をすればバスの運行もそろそろヤバく(廃路線)なるかもしれない、移動ということに関して相当難儀する場所です。

 

日本全国、そういった自動車というものが生活に不可欠、切っても切れない場所はたくさんあります。 

首都東京一極集中、何でもかんでも東京に集まって住まわれる人たちはますます便利。

あらゆる利便を享受しモノを得ることに関しておカネさえあればすべてゲットできる場所といいます。

その場所にあって自動車というものに限ってはほとんど無用であるということはわかります。

買い物はワンクリックで自宅に届けられますからね。ちょこちょこと渋滞だらけの街へ車で出向くのは時間の無駄。

病になっての通院先の選択も無数にあります。

 

 

そういうことで東京に住まわれている事、ありとあらゆる交通網に囲まれている方々が尚車の所有をしたとしても課税率はそう高くなく、車への依存率が高く日々車を手放せないでいる私たち田舎者が高税率というのはちょいと不公平感が漂いはじめています。

道路を傷める率が高くなるということでしょうが走れば走るだけ税金を取るというのです。

 

遠乗りなんて「もってのほか」と奥方にドヤされる件、いよいよ恐懼する日々が訪れようとしています。

 

さて都庁のある高層ビル街の西の緑地帯が新宿中央公園。

以前ブログでは太田道灌「久遠の像」の山吹について記しましたがその公園の一角に十二社熊野神社があります。

ちなみにその地下は「都営大江戸線」なる地下鉄が走っています。

 

熊野神社とあって八咫烏(やたがらす)が有名。

そちらがサッカー日本代表のエンブレムとなってから俄かに都心に於けるサッカーの聖地になった感があります。

 

そちらに立つ石碑には由緒が記されていました。

創建は室町時代の応永期とされています。

中野長者と呼ばれた鈴木九郎という人が、紀州の熊野三山より十二所権現を勧進したとあります。

また渡辺興兵衛なる人物が、天文・永禄年間(1532~69)の熊野が荒れた時代、熊野権現を祠ったという説もあると。

 

全国一番の姓氏「鈴木」といえば発祥は紀州。

その鈴木家は紀州では熊野三山の祠官をつとめる家柄だったとのこと。源義経に従って東上したとありますからその姓が全国的に広がるに一役買ったことでしょう。

九郎の代に「中野」に住むようになって原野を開墾したといいます。熊野三山より当初は「若一王子宮」を祭祀しますますの家の繁盛を得て「中野長者」と呼ばれるまでに至ったそう。

ということで応永十年1403に熊野三山の「十二所権現すべて」を祠ったことが「十二所」の由来となります。

 

江戸庶民からは景勝地として賑わい当時としてはちょっとしたリゾート気分で参拝に赴いたことが伺えます。

 

開拓、開墾といえば勇ましい語彙で非常に前向きに感じますが、ここでも「元居た人」はどうなったのだろうと、歴史の表側に出てこない「人々の営み」というものを密やかに感じました。

他所から来た開拓者が長者になって定住し立身出世の美談はよく聞きますが、消えていった人々が居たであろうことも推察されるお話でした。

 

私は利便性よりも自然がもっともっと豊かで気候も温暖、空気のうまい相良に優位性を感じますが。まぁ人それぞれということで。

田舎者に課税する、それが今度の自動車の件か。

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コメント: 4
  • #1

    小山昭治 (月曜日, 17 12月 2018 10:15)

    政治家どもは限度を知りませんね。
    足るを知る。あるがままでいいのに
    もっと、もっと。
    そうは言ってもこちらも補助金狙いの時もありますが。
    市がICの北側開発を押し進めばこちらは既存の
    商店街への補助金をねらいます。
    国が消費税アップならばこちらは商店街のカードポイントへの
    補助金をねらいます。
    浅ましい身の上です。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 17 12月 2018 10:40)

    ありがとうございます。
    なるほどです。
    少なくともしたたかに生きていく術は活用したいものですね。
    お国の方はもっとお金のかからない施策をお願いしたいところなのですが。
    税金をあげてすべてを解決させるのでは封建時代の御沙汰(年貢)、
    「太桝」と同様の気がします。

  • #3

    がつお (木曜日, 20 12月 2018 23:00)

    ブログと話は違いますが・・・。
    私、百人組についても調べていまして内藤新宿といえば二十五騎組の与力同心の組屋敷のあった場所(今は新宿区百人町1丁目)
    紀州と言えば根来組。
    元々法師でしたが還俗して「鈴木」姓を名乗っている人が何人かいますね。
    彼らは市ヶ谷御門外に屋敷地がありましたが尾張家の上屋敷となるため高田通(今は新宿区弁天町)に引っ越しをさせられるという。
    その昔からお上は下々のことを考えないのです。(でもまあ、そのときに引っ越し代として組で二千両もらっているのでそれなりではあるのですが)
    甲賀組は江戸に出てから青山甲賀町に幕末までいましたが、明治になって陸軍の青山練兵場の一部となり、やはりお上に召し上げられて今は跡形もありません。(神宮球場あたり。今は新宿区霞ヶ丘町)
    あ、でも明治には甲賀組の人はそこには住んでいないですね。
    伊賀組は四谷と思いきや青山百人町。(四谷は伊賀者たちの屋敷かな?)
    昔の忍者たち(ではないかもしれないですが)の屋敷地も今は表参道なる小洒落た街になってしまいました。(今は港区北青山3丁目と南青山3丁目及び4丁目)
    当時の江戸も栄えてはいたでしょうが、今の東京を誰が想像できたでしょうね。

  • #4

    今井一光 (木曜日, 20 12月 2018 23:43)

    ありがとうございます。
    江戸市中の色々についてかなりお詳しくて勉強になります。
    経済と民衆文化イケイケの時代の田沼意次などその新宿の繁栄にその名があり
    案外と街道筋の「遊興の街」(歌舞伎町)のベースはその辺りからのものが
    あったのかと思うところです。
    「百人町」江戸の古地名が現代にいたっても生きていますね。

    挙げられた地名は私の学生時代にふら付いていた場所ばかりですが、
    古地図片手に今一度歩いてみたい場所です。