名古屋大仏 桃巌寺 織田信秀の墓 信行と柴田修理も

朝の冷たい空気と庫裏の隙間風ガタガタ音には毎度の事ながらイラっとさせられますが外のハイビスカスの鉢が風のために倒されているのを見てさらに不愉快な気分になります。

冬が近づいている事がいよいよ実感されてきたからです。

厳冬は生命を途絶えさせる季節であり、私にとってもこれから忍耐の季節になります。

少々大袈裟な言い回しかも知れませんが身体にとってあまりイイ季節ではないですね。

 

ハイビスカスたちは毎冬、室内に退避させていますが、今期は新調する物置の2階に置くことを計画していました。

11月初旬には完成してスンナリの左団扇のつもりだったのですがあの台風が過ぎてから当初の計画が一変します。

以前も記しましたが、あの台風は御前崎を中心に家屋、特に屋根や外壁を痛めてそれらの対応に工事業者が大忙しで出払っているからです。

職人だけでなくそれらを手当てするための素材、三州瓦にスレート等生産が追い付かず入荷待ちになっているものもあるようです。

 

よって土蔵はキレイになくなって更地とはなりましたが次のステップには進んでいません。

これから報恩講に僧俗研修会とイベントは目白押しですが散らかりきって行く場所を失った品物たちは何方に放り込めばいいのか只今思案中です。

また「年内いっぱいは何とかなるだろう」とは言っても熱帯性植物たちは一旦どちらかに退避させなくてはなりませんから。

 

さて、数日前からスキャンダラスな報道がされている名古屋のお寺さんについて、そういえばまだブログにアップしていなかったことを思い出したものですから、この機会にと。

ここのところあまり新しくない画像をアップしていますがそもそも「古いもの」を対象としたブログですのでご容赦いただきたく思います。

 

以前、信長の父織田信秀の墓と万松寺について記しましたが、そちらとは別に信秀の墓があるお寺が桃巌寺。

元は末森城主織田信行が父の信秀(法名「桃巌道見大禅定門」)の菩提を弔うために末森城の近くに建てたお寺が始まりです(現在はこちら)。

信行は父信秀の葬儀(ドラマ等であの有名な場面)の際、信長の奇行とは対照的に「非常にまとも」に振る舞った人物でのちに信長に騙し討ちにされています。

 

何せこちらには日本全国公然とあるいは密かにそれぞれ「大仏」と呼ばれるものが存在しますが、こちらにはいわゆる「名古屋大仏」なる仏が鎮座しています。

その色彩感覚には少々度肝を抜かれますが・・・。ただしこちらは昭和62年に作られたもので古さという点では有難みが薄れます。ご住職の趣味的なものの意義が強いかと。

 

それにしても万松寺にしろこちらのお寺もどうしてそれほどの土地が現在もなお伝承できたのか不思議ではありますね。

土地そのものの価値も名古屋という大都会とこちら相良とは比べ物になりませんが、私どもも戦前はある程度の土地が地域に存在していました。

寺の寺領というものは江戸時代より公儀より安堵されてきたもので規模の違いはあるでしょうがどちらであっても土地というものは確保されているものです。

その土地は戦後のマッカーサーの施策、農地改革によって召し上げられることになりますが、いかにしてその土地が今に至って存在できたのか・・・きっとかなりのヤリ手だったのでしょうね。

 

五輪塔3基と銘文の記された石塔一石が以前の末森城近くから移設されていますが、その銘文には興味深い事が記されています。

(大きい五輪塔⑤は移設の際、設けられたもので遺骨がまとめられているといいます)

一石塔が三つの五輪塔の墓碑銘を記したものだとすると3つのうちの真ん中のものが「前備州太守桃巌道見大禅定門」」で信秀というのは間違いないところ。

そして右側が「織田武蔵守信行公」。左側が「柴田修理勝家公」とあります。こちらで柴田勝家の名を見かけたことに感動したものでした。

そもそも勝家は信秀に仕えたのち信行の家老でした。

 

左右の五輪塔については何方が何方とは確定できるはずもなく。正確に持ち出され設置されたという確証がありませんね。

一石塔の左右での位置関係はとりあえず決まっているようでそれを理由としてこじつければ右側が柴田か・・・。