小山平吉屋敷銅版画 丸尾復明館と仁田野村幸右衛門

昨日の法要には中学高校の同級生の参列がありました。

その方のお父さんお母さんの回忌法要です。

法要のあとに来年の同窓会には是非来るよう告げられましたがその件は先日記した久保氏のお誘いと同様です。

その方が言うには3名ほどの名を挙げて「あの人もあの子もそしてあの方も亡くなっちゃった」と。

私の今回の「加齢による免疫不全から悪化した気管支炎」・・<土蔵病>(自身勝手に診断)の治癒の遅さと不自由と苦痛を嫌と言うほど知らされて心身弱気になっていたところですのでそれを聞いて少々驚かされまた「なるほどそういう齢になったものだ」と思わず合点しました。

 

私の場合はたまたま母親は健在ですが父母を亡くして「次の順番」について考えるようになった頃の同窓会ということ。

今回は複数の人たちからのお誘いがあって、二次会はともかくとして初めて参加してみようかという方向により心が動きだしました。

 

さて、拙寺の「有徳なる」家として古くから適宜総代世話人に名を連ねている小山家御一統がありますが、先日行った史料館にて小山平吉屋敷の銅版画を見つけました。

こちらは明治~大正期のものでしょう。

20~30年前に当地で「航空写真撮ります」のサービスを請け負う会社がありましたが、おそらくその手のものの走りかと思います。

静岡県内の富豪大店の屋敷や寺社を鳥瞰した図を繊細銅版画に仕上げたというもの。

版元原版はまず依頼者の元に置いて行ったといいますので小山宅に保管されているかと思われます。今度伺ってみましょう。

小山家は相良湊での薬舗が始まりですが分家筋は各広がって大店を構えました。

 

墓石に記したものによれば小山の元の名のりは鈴木とありました。

経緯については不明ですが薬店の先代の奥様、約半世紀に渡って拙寺婦人部を仕切って頂いた千代さんに伺ったところによると「三州足助ご縁」の鎧具足が伝わっていてそちらをかつて足助神社に奉納したと聞いたことがありますので、そうなると足助の鈴木家からの「スズキ」が推測できます。

本通りは当初より近江商人系が幅を利かせていましたのでその長い歴史の中、近江から商売上手の血が流入しているのかも知れません。

そしてまた拙寺二代祐伝は成瀬藤蔵の息子ですので当然に足助とは切っても切れないご縁となっています。

 

薬舗「大阪屋大平薬局」は現在は大沢に移転していますが版画の方は以前の本通りの図ですね。

尚、ケチをつけるワケではありませんが今の「大阪屋」は「大坂」が時代と共に変化していったのだと思います。

その屋号を見ても元の関西系を想像します。

それは取り扱い薬種の入手先が大坂問屋の品を主に取り扱った事からとも考えられます。

 

版画はその家の屋敷のみをクローズアップして他を省略、後景もデフォルメしています。

店舗裏の大きな土蔵に広い中庭には畑らしきスペースも見えます。東側の通路沿いの建物は使用人たちの住居区でしょうか。

②は城東郡池新田の復明館丸尾瞭益邸。

この「瞭益」は医系丸尾家の代々の名のりですね。

③が川崎仁田の野村幸右衛門邸。

江戸期の代々の庄屋といわれていますが拙寺野村一統との関係は不明です。こちらの家系は既に遠州を離れているそう。

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コメント: 6
  • #1

    野村庄右衞門幸弌 (月曜日, 08 10月 2018 22:22)

    仁田村の野村氏、私も気になり教育委員会の長谷川様に問い合わせてみたことがあります。

    長谷川様からの返信によると、

    仁田の野村本家が仁田村の庄屋を命じられたのは、寛文年間(17世紀中頃)といわれています。
    また、この家には豊臣方の槍持ちだったという伝承があり、その後に柏原(勝間川下流域)・仁田へと
    移ったようです。よって、野村庄右衛門家とは基本的に別系統の家ではないかと思います。
    勿論、遠い昔や後代に姻戚関係を結んでいる可能性はあると思いますが、それを証明する史料は発見されていません。


    との事でした。

    三河本証寺の空誓は三河一向一揆で敗れた後に、足助の民家で匿われていたそうです。その地で本証寺の11代の覚誓が生まれたと伝わるそうです。子どもの記録は残っておらず、本証寺を継いだ覚誓しかわからないそうです。

    本証寺10代の空誓は慶長19年に没しています。偶然にも、私どもの野村家の墓碑には

    "慶長年中 空誓ヨリ八代之孫庄右エ門寿量…"

    とあり、未だに関係あるのでは?と推測しています。本証寺と大澤寺が本末関係にあったというのも大きいです。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 09 10月 2018 07:57)

    ありがとうございます。
    本証寺空誓の血脈が野村家へと繋がことを推すのは当時の野村家の家の勢いからも
    有り得ることですね。
    「釋蓮空誓」と1文字「蓮」の字を付けるなど目を引く(現行法名では違和感)
    法名の「野村庄右衛門父」とある人の没年が延宝八(1680)年と過去帳にありますが
    法名を縁者と準えたことも考えられますね。

  • #3

    野村庄右衞門幸弌 (火曜日, 09 10月 2018 13:21)

    あくまでも私の推測の域でしかないのですが。

    本証寺の空誓は足助に隠れた後、足助の門徒たちを率いて石山合戦に参加したと思われているようです。

    当家の墓石の慶長年中の空誓は今となっては何もわからないですが、当時の野村家には口伝として伝わっていたか本家にも何かしらの史料(系図など)あったかもしれないと思っています。
    なにせ、本家が火災にあってるようなので何も残っていません。

  • #4

    今井一光 (火曜日, 09 10月 2018 20:09)

    ありがとうございます。
    火事による歴史の消失は痛いですね。
    拙寺も田沼以前の書面、家康の朱印状ほか各証書の部類の焼失によって
    苦労したことが伝わっています。
    いつかどこかに埋もれている資料がでてくるやも知りません。
    その時を待ちましょう。

  • #5

    野村庄右衞門幸弌 (水曜日, 10 10月 2018 00:04)

    今回の大澤寺の蔵の件、なーにか当家に関連した史料があると良いなぁと結構に期待しています。

  • #6

    今井一光 (水曜日, 10 10月 2018 07:59)

    ありがとうございます。
    体調不良のためまったく進捗していませんが、これからぼちぼちと注意深く調べていくつもりです。