野洲郡三上村からの手紙文中 近江屋山崎家

午前外で所用を済まして帰宅すると解体屋さんが私を確認するや「ごめんなさい やっちやいました」と。

なるほど教育委員会が建てた看板はへし曲がり八重桜が折れ大事に育てていた松の幼木が瓦礫に埋もれていました。

門を入ってスグの通路側に土蔵の東面を倒したということ。

呆れ果てましたが、お墓参りの人がいなくてよかったと安堵しました。しかし無茶やりますね。

松や桜の命が断たれた事は悲しいことではありますが「これもご縁」と何とか割り切る事はできましょう。しかしもし人様に怪我をさせていたら「ご縁です」などとは言えませんからね。

家に居た奥方にその様子を聞けば「ああ あああ~!」の次にガシャーン。想像するだけで恐ろしい。

私もかなりイイ加減、門前に注意喚起の看板すら掲げていませんでした。

 

排水溝もガラで埋まってしまいましたので大雨が降ったらさあどうなることやら。

何とか今度の台風25号は日本海を北上するような気配ですので私どもは台風のケアはしなくてよさそうです。かといって境内は埃っぽいことこの上なし。

少々の雨を・・・など都合のイイ具合にお願いしたいところです。

進路予想を見れば北海道の先日来の地震頻発地区を通過しそうです。そちらの方が大変です。同じ場所へ災禍が集中するというのは「公平じゃない」と人間世界であったならボヤキの一つも言えましょうが相手が自然となると問答無用です。

時間があるうちに念入りにご準備を。

たとえ徒労に終わったとしても、次に繋がります。

 

さて、門前に立つ寺標と一處墓前の御開祖銅像に記された「山崎貞一」氏も相良の偉人として地元ではその名を知らしめている方ですがやはりチャキチャキの近江門徒です。

屋号も「近江屋」でした。

 

江戸中期に近江野洲郡三上村から分家して遠州に下ったという歴史がありますが、山崎家に残る興味深い手紙がありましたので勝手に抜粋して記させていただきます。

 

「~候却説(さてまた)  布施様西村様板倉様各別家衆モ 御無事ニ御座候哉 御伺申上候  右ニ因別家衆へ乍憚  御伝言被下度候 布施様ヘハ特ニ宜敷御伝ヘ被下度候」

 

明治の頃、野洲三上山の麓にある本家(代々糀商)より相良山崎家へ送られてきた手紙の一部ですが私が驚いたのは①当時もまだ近江―相良の親戚付き合いが続いていたということ②そして布施・西村・板倉の三家をあげている(布施家には特別に・・・)ところからかなり親密に相良との交流があったことがうかがえます。

 

今は「遠い親戚より近くの・・・」などいう言葉を耳にして遠方親族は疎遠になる事が多いものですが、現代とはむしろ通信や移動について安易ではなかった時代です。きっと「大切にするもの」が違っていたのでしょうね。

 

また「布施・板倉」両家とも近江出自は承知していますが、「西村様」に関しては拙寺檀家にありませんので不明です。

 

①は文化六年(1808)拙寺九代祐厳時代に近江屋から寄贈された打敷の裏側。三者の法名をあげ「為 報恩謝徳」イイ言葉ですね。寄進日9月11日の日付から宗祖の五百五十回忌御遠忌の報恩講にあわせてのご寄進だったのでしょう。

劣化が激しくぼろぼろですが。

 

片付けはあと1日かかりそう。あの埃を吸い込むのが怖くて・・・

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 06 10月 2018 09:11)

    今朝 壊れた看板を拝見しました。台風の風ではないと思いましたが・・・
    多少の事故はあるもんですね。人ではなく良かったです。
    土蔵であっても、あったものがなくなるというは寂しいですね。
    人間 忘れるように出来ているので
    しばらくすれば違和感はなくなるでしょう。
    アホな人間、ずるい人間。軽い人間。便利な人間。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 06 10月 2018 16:20)

    ありがとうございます。
    ただただ南無阿弥陀仏と報恩謝徳。
    これから物置を建てますが何もない方が全然イイことがわかりました。
    いろいろ後悔ばかりで。