復元された松本城太鼓門 明治の拙策 旧物破壊

結局のところ一昨日の「逆療法」~思い切って外に遊ぶこと~はまったくダメとの結論を得ました。

恐ろしいほどのぶり返しにあって超絶不調、まず20時間は寝ていたかもしれません。

地元祭典のこの頃数日は相良からは離れて遠乗りを重ねたものですが今節はそうはいきませんでした。

まぁこれも見えない力、今年は「家に居ろ」というお達しも感じます。

追加で反省。

「安静にしとけ」と言われたら家でじっとしている事ですね。

たかが「塵埃」ではありますが、本当に本当に凄いことになるということを知りました。未経験の症状は齢のせい(免疫力の低下)ということも。

 

さて、明治の愚策、廃仏毀釈、古物破壊の社会風潮について時に未練タラタラで怒り、そのバカバカしさを大いに罵っているのですが、そのあまりにもオカしくて変てこなその流れについて冷静に分析し以後の保護の観点からの施策の変遷(文化財保護への流れ)について記された書面がありましたのでご紹介したいと思います。

 

それが

「日本における文化財保護政策・立法の展開」

            一明治期一破壊より保存への道 一

                        松本康徳
です(サイトへ)。

 

上記記述にもありますが廃仏毀釈そのものの発生は何も「明治」を発端に起こったものではなく江戸期に儒教的思想まん延地において「寺院僧侶の怠惰」の様が著しかったといいますのですべてを明治政府のせいにすることはできませんが。

 

立法の歴史についても簡潔に流れに沿ってまとめられていてわかりやすいものがあります。

先日来拙寺のお上への提出用に記したであろう書面を紹介していますがおそらくそれらは

「寺院附属の佛器什物等を簿帳に記載せしむる件」明治5年8月3日教部省達第12号他~からの流れがあったのでしょう。

 

そういえば明治期の文化財叩き売り的価格設定とそれに伴う海外流出は最大の悔恨でしたがあるエピソードに買い付け調査に訪れたであろう人に「この箱の中身は?」と聞かれて坊さんは咄嗟に(持ち出されないために)「コレを開けると祟られる」と言って追い払ったと。そんなハッタリで通用するとは・・・と思っていましたが今の私のこの状況からまんざら「なくもない」かと。

 

画像は松本城太鼓門と桝形。平成11年に復元されたものです。もとは文禄四(1595)石川康長によって建てられたものですが明治四年の「旧物破壊」の流れによって壊されていました。

興福寺の塔の価格が当時の25円(今の十数万円)でしたのでこちらは薪程度の価格で供されたことでしょう。