明治12年大澤寺十一代祐曜(祖父の祖父)の提出書面

台風21号の上陸が4日予想になっていましたがここ相良は好天。軽トラに積み込んで庫裏の陰に追いやった植木たちを今一度出したくなるような日差しと青空が出ていました。

私は膨大な古文書の量に唖然としつつボチボチと目を通しています。

 

文書の箱を陽当りに出して埃を払いながらの仕事になります。台風の南寄りの風が吹いていましたので舞った「悪いもの」を吸わなくて済みますね。

と言いながらも新しい発見がありますから面白い。

判読不能のボロボロの書面が出てくると空しくなりますが・・・

 

書面画像は抜粋ですが、明治維新後にお上から「寺の情報を出せ」ということで記したのでしょう。

15代目の私から見て祐曜(義誉)は11代目ですから祖父の祖父。

その名「義誉」は小島蕉園に名付けられたものでした。

 

現在は宗教法人法による提出書類がありますが、役員等事項の変更についてはその都度、財産等については毎年春に県庁に提出することになっています。

 

そもそも江戸時代にはそのような「管理」は無かったはずですね。「寺請制度」の観点からすれば寺自体が「役所」のようなものですし。

悪い言い方をすればお寺が幕府の人民統制の一翼を担っていたと言っても過言ではなかったと思われます。まぁその件から明治政府による最悪の短慮、廃仏毀釈の方向性に拍車をかけたのでしょう。特に恨みを買った寺が打ち壊しにあいましたね。

おかげさまで真宗系寺院に関しては檀家さんに寺が守られたのでしょう、地域差はありますが拙寺に至っては宗徒による「打ち壊し」などは聞いた事がありませんね。

 

 

今の大河ドラマの台詞(そろそろ山岡鉄舟が出てくると思って、つまらぬ台詞回しに耐えながら視聴しだしました)では薩長同盟において「いがみあいや戦争のない新しい時代」などの聞こえのイイ台詞が耳に入ってきましたが、明治になってから急激な富国強兵の推進があって日清・日露の大戦があったように「素晴らしい」っぽく語られる「明治維新」なる語はまさに茶番の如く感じます。

それから調子に乗って昭和の戦争で130万人の国民を殺しているのですから。

 

ちなみにその薩摩では廃仏毀釈で多くの寺々が壊されていますね。その異常性は突出していました(明治6年の地域別一覧で薩摩・大隅で僧侶の記載なし そして「僧」という職が一掃されたということ)。

 

「寺請制度」では「宗門人別改帳」という戸籍や税取り立ての台帳が作られていましたが明治になってそれを改めて「管理台帳」を作ることになるのですが、そちらが「壬申(明治五年)戸籍」ですね。

それまでは「僧侶や神官」の身分はそのまま「僧侶や神職」だったのですがそれが廃止されて族称が「皇族・華族・士族・平民」に統合されたのでした。とは言っても平民の下にも被差別階層があったことは周知の通り。

 

今となっては殆どその手の族称は使用されませんし、私もその手の事は考えもしていませんでしたがこの書面を見回すと、当家は「士族」となっていました。

祐曜の息子、祖父の父、12代目の祐闡にもそれが記されていました。まったくどうでもイイことですが、括りとしては「そういうこと」・・・だったよう。

僧侶→士族・・・「明治」と言う時代はわからない。

 

興味深いところは檀徒675名のところ。

一戸平均4.5名で割れば檀家さんの戸数は150件程度でしょうか。

時代を経た全国総人口の増加率に比較して、大した変わりはないというのがこの土地の特色。