今度の一大事の往生について 「易往而無人」

朝から榛原病院の内科待合を並び午後はのんびり。

本当に病院だけはどちらも「人多し」で閉口させられますね。

「咳こみながら熱が下がらない、食欲がない」などと受付にて語る症状が聞こえてきて、「こちらに長居は禁物」であることがわかります。

しかし私はもっと重篤かも知れないと思われる病を疑われての再検査の結果待ちでしたので、我ながら土壇場を前に「腹を壊すから」と言って差し入れを口にしなかった石田三成を思い出してニヤリと。

 

当家には「ママ判定」なる暗黙の了解があって、何事も息子も私もその顔色を見ながらの処断行動となるワケですが今回の私の通院検査から医師の見立てのドタバタの件「どうせ偽病」とハナから相手にしていませんでした。

息子は奥方の判定にのっとって私がCT検査をするにあたり「(坊さんなのに)生きながらえたいのか?」などと言い放つはでその人間ドックのX線画像診断による再検査をただの「冗談」レベルの事だと思っていたようです。

 

今回の再検査は①「酒も飲まないのに肝臓の数値UPUP」

②「煙草も吸わないのに肺に影」の2点についての再検査だったのですが考えるに酒もタバコもそれぞれその病の「傾向が強い」はあるものの、かといって「絶対にナイ」とはいえないですし、私の周囲には皮肉的結末は概して往々にあることを知らされていますので十分に「有りうる」と考えていました。

 

肝臓の数値は栄養過多と運動不足のうえにたまたま検診前に食べ続けていたシナモンが影響したことはだいたい推測できましたが奥方には特にいよいよ「城歩き墓歩き」の時間を増やすよう頼み込んでおきました。

 

さて、「肺に影」といえば普通に想像するのは「(悪性)新生物質」。要は「肺がんになったか・・・」と6月の人間ドックから先月のCT、そして昨日まで「おまかせ」により「仕方ない」の気分でいましたがやはり結果は「ママ判定」の通りでした。

 

春先に頸椎の手術のするしないの大騒ぎに続いての通院ごっこ(奥方)となったのでしたがきっと内心安堵もあったはずですね。

まだ息子が定位置に留まるまで時間が必要と考えているようですし。私の考えは「その時はその時、どうにかなる」としか・・。

 

今回は運がイイということもありましょうが、私はただ医師の所見と指示に従ったというところ。

人はいずれにしろ浄土に行くということは決定事項でありまして、ただそれが何時かは計れないだけですね。

息子の言うよう今度の一大事の往生についてどれだけ健康にして生きながらえるか、気張らずにチャレンジしてみましょう。

 

病院の待合室「人多し」は今や常識。

あれだけの人口密度は特筆ものですね。

医療の現場は今や一大産業となりました。

 

本日は「人多し」の語の反対、「人なし」(「浄土へは往きやすくして人なし」)で著名な蓮如さんの御文(二帖七「易往而無人」)を。日本人の大好きかも知れない「差別」について否定しているところもイイですね。そうだからこそ蓮如さんはそう記しているのでしょうが。

ちなみにこの御文は少々長いですが私の拝読頻度は高いものがあります。ブログでも再登場と思われます。

 

二帖目 七「易往而無人」

『しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、

まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり。

後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄燿にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。

それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

 

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴もいらず貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するもつて本意とす。

 

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。 

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あらやうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。

さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら往きやすの浄土や。

 

これによりて、「大経」には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。 

 

かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。 かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 

文明六年三月三日これを清書す。』

 

画像①②は山梨で懐かしきあの「給食」を食べさせる場所。

檀家さんがそちらに行ってきたようで画像をいただきました。

私も鰻ばかり殺生をせずにこのような質素を心がければより健康なのですが。

奥方は送られてきた画像を見て是非に所望したいと申しておりますが、それはかつて公立校には通っていなかったということです。

「なめとんのか」ということですね。イラつかれるからそれ(給食なんて食べたことが無い)を言うなと。

 

それにしてもイラっとさせられたのは相良の花火大会でドンパチが終わった直後の震度3の地震。久し振りの揺れにCTの結果を聞く時以上にドキドキさせられました。そののちに再度揺れがありましたが嫌な感じです。

 

③は8時30分頃の榛原病院。より早くチェックインしなくてはと早駆け・・・。おかげで10時過ぎには終了できました。

④はその「影」の原因について触れている所見。

 

「ニップル(乳首)」がX線画像に写り込んだ可能性があるとのことでした。さらに検証するために乳首に金属を貼り付けて再度撮影する方法を提示されましたが、「また来年」ということでこれ以上の探索は辞退することにしました。キリがなさそう。