「美しき海の墓場トラック島~戦時徴用船の悲劇~」

箱根山系と富士山のおかげでしょうか、さすがに昨日は一日中雲が出ていましたが台風13号の存在はそう感じさせませんでした。

ただし国道150号線の走行時は潮が空中に靄っている様子からうねりは入っていることがわかりました。

首都圏は雨と強風の画像が入っていました。

南海上には14号が控えていますのでまた当分の間国内やきもきさせられることになりましょう。

 

先日の12号で散々にヤラれていた湯河原の海水浴場の「海の家」も修復しかけて即13号の到来ということでてんやわんやというニュースがありましたが台風そのものは東にそれた感がありますので少なからず安堵されているのではないでしょうか。

 

「海」という大自然の現場で御商売(恩恵を受けている)をしているのですからそういう事もある程度は覚悟の上なのでしょうが、やはり運・不運というものがありますね。

 

不運といえば戦時中、軍用運搬船として日本の国から徴用されて西太平洋で米軍艦載機の攻撃によって沈没させられた徴用船の運命。乗員の命も勿論です。

8月15日が近くなると必ずNHKは特別番組を用意してくれますが、昨晩はBSプレミアム「美しき海の墓場トラック島~戦時徴用船の悲劇~」を視聴しました。

 

私は横浜山下公園にある氷川丸を眺め慣れ親しんでいた事を思い出しますがその姉妹船(3番船)の「平安丸」という船もそのトラック環礁に沈んでいました。

あのような豪華客船も「兵役にとられて」いたとは・・・

 

太平洋戦争中、徴用船は大抵が軍用に改造されて、中には飛行機が離着艦ができるように、大砲や機銃の設置改造が義務付けられていたよう。

本来の設計とは違う無理な改造がなされれば実用性は勿論、安全面が犠牲にされることは一目瞭然、それでも日本軍は民間からそれら船舶を掻き詰めたという歴史があったということです。

お寺から梵鐘他金属類を搔き集めた件もありますが、「計画性」というものが無いということ。大本営のお偉いさんときたら「行き当たりばったりの精神論」で戦争をしていたことがわかります。

 

連合艦隊最強神話の誤算からアメリカに押されっぱなしの制海権消失に伴う船舶消耗が著しくなったが故の「徴用船」でしたが、アメリカ側の狙いは「物資輸送船(徴用船)壊滅こそが日本軍の息の根を留める事につながると早くからその戦争終結への方向性に絞り込んでいたよう。

 

特に無線傍受と暗号の解読に関して注力し、日本の艦船・輸送船団の各船舶の現在位置(緯度経度)と名称は把握されていたとのことです。護衛艦が付き添わない場合などは潜水艦を派遣して魚雷で沈没していったとのこと。

 

トラック環礁内に停泊する船舶は米軍航空写真によって手に取るように把握されていました。

トラック島爆撃の前に撮影された写真にはすべて船舶名が記されていましたので当時のアメリカの諜報力の凄さを知りました。あの武蔵や大和も写っていましたね。

 

ところが海軍(連合艦隊)はそれを察知してアメリカ軍の機動部隊の襲来直前にトラック島を離れてしまい島に残っていたのは徴用船だけだったというのがこの国のお粗末さです。

命令系統の複雑さもあるでしょうが「弱いものを守る」精神の欠落もあるのでしょうね。

 

ということで世にいうトラック島空襲というものは限りなく「一方的」だったということですね。これは「無抵抗の者をボコボコ」だったということが伺えます。

ちなみにアメリカ機動部隊艦載機の「avenger」の意は「復讐・仕返しする者」。トラック島攻撃にあたって米国軍兵は一途に一言「真珠湾を忘れるな」がフレーズだったそう。

 

水深50mに沈む「愛国丸」はその「avenger」から放たれた爆弾が2発被弾したという米国側の記録が残っていましたが、400名以上が船とともに亡くなったといいます。

番組では船の機関室内に潜った様子が映し出されてましたが、愕然とさせられました。

いまだ夥しい遺骨が残っているのでした。

父親がその機関室に居たという遺族の方が仰っていましたがその形容を「真っ暗な海の底の棺」と。

 

600人が乗船していた赤城丸は環礁を脱出したものの「avenger」に追撃を受て沈没。生存者は十数名だったとのこと。

母と乗船し今生の別れとなったと泣きながら話していた女性が印象的でした。

 

このように攻撃によって船が沈没した際、水没を免れても漂流し、力尽きて溺死する者もいれば、漂流者へ向けた機銃掃射の雨が容赦なく降らされたといいます。

友軍の船舶に引き揚げられたとしてもその船も攻撃されて沈没。再び漂流してなんとか小舟に拾われて九死に一生を得たという方たちがその生存者なのでしょう。

 

中には戦闘員(軍人)でないことを理由にその小舟(定員がある)への乗船を拒んだ婦女子があったと聞きます。強制的なのかその方たちの深慮なのか色々なシチュエーションがあったかとは思いますがやはり日本の男たちは女子供を守ろうという気概というものの欠落が伝統(男尊女卑)にあったようです。

 

今もトラック島に沈んだままの遺骨を目の当たりにして、私が想うところは、そのご当人は勿論ながら遺族たちの気持ちに対してのお国の責任はいかに。「それでイイの ?」です。

 

戦後3/4世紀が過ぎようとする今、その方たちにとって戦争は未だ終わってなどいないのではないでしょうか。