評価ボロクソ 国会のセンセとあの学校 男子も女人も

昨日は岐阜で41℃がで出ましたね。

名古屋・岐阜そして京都辺りの高温情報がニュースでとりあげられていますが、奥方に「郡上八幡へ行こう!!」と提案すればそんなに暑い所に行きたければ「ネコ部屋に行け!!」と一蹴されました。どれどれと温度計(③画像)を見に行けばまぁなるほど・・・でした。

 

たまたま行った榛原方面、静波海水浴場に寄り道すればなかなかの繁盛ぶり。海水浴場ブームは消滅に至る運命かと思っていたところでしたので意外でした。

先日、息子が数人の男子と海水浴場に車で乗り付けて遊んできたようですがなんと駐車場料金は800円。

年配者が門番としてガッチリガードしていました。

当然の如く閑散期はフリーです。

 

ついケチな性分の私は「バカバカしいのでよしなさい」と。

地頭方で飛び込んだり潜ったりの方が断然面白いだろう・・・ということです。駐車料金は掛かりませんしシャワー付きですからね。女の子はいないでしょうが・・・。

 

さて、先日来、バカバカしいというか、お恥ずかしいニュースが報道されていますが、・・・そのお騒がせのどちらもエラい人たちのアホですか?と思わせる件でした。

今時というか、これまで差別とか平等、公平という言葉に慣れ親しんで頭の奥底に摺りこまれて育ってきた私たちですが、(無論仕事がら私は仏教経典に沿った教え・・・、回向の「平等施一切」に御文五帖の四「男子も女人も・・・」などなどです)それらの件を聞いて、「話が違うじゃん」と思いながら」「まだそんなことやってんの(いってんの) ?」の思いでした。

 

①は「LGBTは"生産性"がない」の国会のセンセ。

まず手前様の「税金喰いの非生産性」について論んじていただきたいところではありますが(勿論拙僧にその「生産性」なるものが付随しているとは思いもしません)、他者の生き方は自由であってそれが一般的ではないということから「生産」という勝手な語彙を持ち出して存在を否定するなどは「世の流れ」(自由・平等・被差別)から逸脱しています。

封建時代~戦前の考え方ですね。おそらくその語の引用は人口減少と就業者減少の危惧を指しているのだとは思いますが、あまりにもお粗末。選んだ国民が悪いですね。

 

まぁコレもその手のセンセ方がやりがちな「奇をてらった自己主張」で「名刺代わり」の短慮ともいえますが、やはり「次はナイ」でしょう。

 

②はあの「今時 裏口入学!!」で世を驚かせた東京医大の別件ですが、入試の際の女子限定減点システム。

2010年くらいから行っていたそうでそれまでよくバレなかったなぁと感心。まぁこちらも内部告発からでした。いい事ですね「自浄の精神」の風潮。

 

こちら女子の得点に一定割合の係数をかけて一律に減点し女子の合格者数を抑えていたといいます。

ある年にまともに合格発表を出したら女子が半分を超えたため女子の合格を減らすことにしたそう。意味不明です。

これだけですとただの男女不平等な学校ということで済みますがひよっとすると法に抵触するかと。

私立大学ですからご自由にその配分を決めればいいのですが、その手の件は「入試要項」などで事前に表しておかなくてはなりませんね。

 

通常その手の文言が明記されていなければ試験の点数の上位者が合格するというのが常識的入学試験のあり方ですし、私の知っている限りこの医大の如く「男女」によって点数を加減することなど聞いた事がありません。

そこを勝手に「女子だから」という理由で(これを「差別」といいます)内内で減点して不合格にしてトータル調整するということは・・・「詐欺罪」も考えられるのではないでしょうか。

民事となれば当然に、賠償請求に値しますね。

 

一つに(慰謝料抜きにしても)「試験代を返せ」というところは当然でしょう。合格ラインに達していたにも関わらず機械的に排除され、医師の道を閉ざされたことが立証できたとしたら・・・これは凄い事になりそうです。

被害者弁護団なるものが結成されたとしたら・・・

色んなことがバレちゃって大変です。

 

①の方はタダのアホでした、ちょっと口走ったことと呆れられ笑っていられますが②は大変な事になりそう。

何より「医師」の考え方とは「そんなもの」という、お下劣な先入観を植え付けましたね。

海外メディアは男女機会均等法など口先だけの政治家とそれを承認する国民性を嗤っているようです。

 

それでは蓮如さんの御文「男子も女人も」全文を

 

五帖―四

『そもそも、男子も女人も罪のふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、今の時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては、なかなかかなはざる時なり。

これによりて、阿弥陀如来と申したてまつるは諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、阿弥陀仏と成りたまへり。

「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば、われらが極楽に往生せんことはさらに疑なし。

このゆゑに、一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、

十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし

このうへには、なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし。これをすなはち仏恩報謝の念仏と申すなり。

あなかしこ、あなかしこ。』

 

ちなみに蓮如さんは1415年~1499年の人です。「みな浄土に往生すべきこと」を解せば「みな幸せになれること」です。

 

時代が古くても仏の下に居ると思わせるいう自覚がある者は差別などしないですね。

最近はどちらを見てもどうも「仏の上にいる」(自分が一番)と思わせる人ばかり見ているような気がしてなりません。

 

①②はコウモリとそれを引き釣り出して遊ぶ舞鶴殿。

たまりかねてキーキーとか鳴いて飛んでいきました。あいつが本堂に居つくと厄介なことになりますが・・・

舞鶴殿にはあいつも必死に生きてるぞと。