二俣第三の城 笹岡古城 遺すべきものでした

驚愕の死者・不明者が三桁にのぼるという事実。

先進国の仲間入りをしている我が国ですが、誠に恥ずかしいことだと思います。

宗教団体の死刑囚を大量「処分」した件も海外(特に欧州)から轟々たる非難の声が上がっていましたが、この天災対応のお粗末もなかなか胸を張れるとはいえない行政の穴を見せた感。

 

天変地異に関しては致し方ないだろうという意見は大勢でしょう。しかしその発生について事前に分かっていてそれへの対応が遅れていたとしたらおかしなこと。

被災地によってはこの手の水害が初めてでなく、近年何度目かの体験であったことを被災者が言っていました。

 

同じことを繰り返す(天変のパワーアップがあるにしろ)というのはやはり管理者の責は免れないでしょう。直接管理する地方自治体も当然ながらお国の方も・・・

昨晩も「やるべきことをしなかった首相の責任」という記事が踊っていました。

宗教団体のお歴々への処断のあと、官邸で法相らと酒宴に興じていたという記事ですが、あの「処刑ショー」にも感じるマスコミの報道姿勢にも疑問が残りますが、大雨警報報道を掻き消し(本来の意図するとろは文科省「裏口入学」だったのでしょうが)てしまい、被災地の危機意識を喚起できなかったことは罪深いことだと思いました。

 

たくさんの命が無残にも失われて、「天災だから仕方ない」と割り切れるものでしょうか。

 

別件ですが南遠の宝と語られてきた役者の加藤剛氏が亡くなっていたという報がありました。

先般も「三匹の侍」について記しましたがその番組や特に大河ドラマの平将門役が印象にあります。

最近は妙に私が若い頃にお茶の間でお世話になった「役者」が消えてしまい、寂しい思いがします。いよいよ次節は私や私の世代の人たちが「三途の川や」(吉本新喜劇風に)となるのでしょう。

 

さて普通に二俣城といえば、武田時代が今の二俣城、大久保忠世が入ってから鳥羽山城を含めての大きい意味での二俣城という感覚ですが、古くから二俣城と言われていたのがやはり近くの笹岡城(場所はこちら)。

位置的には3つの城のうち最北となります。

現在の天竜区役所・消防署に改変されていて一部背後の山(こちらも「本城山」と呼ぶそう)に少々の遺構を残すのみ。

役所の建設工事の前に発掘調査が行われていてその際に井戸枠やら各出土品が出てきたよう。

他人事となりましょうが、あれだけ広い土地がある中、遺構を壊してまで役所を建てなくても良かったのでは・・・とも思いますが。

 

城郭大系には不詳ながら「二俣近江守昌長」と築城者の名を記す資料(遠江国風土記)を紹介していました。

 

「二俣古城図 按文亀年間 近江守昌長 之築乎 郷人謂古城也 又謂城南地 号ゆき殿ケ谷 蓋詰城ノ七郎朝光始所築乎 詰城小山同氏 住処」

 

以下画像は昭和49年4月29日とありました。

若かりし加藤剛氏が写っています。

拙寺本堂前で記念撮影の図で某家の法事に出席したところですね。叔母たちが「イイ男!!」と大騒ぎしていた事が想い出されます。真ん中下の首を傾げた爺さんが私の祖父。

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コメント: 3
  • #1

    野村幸一 (水曜日, 11 7月 2018 04:04)

    加藤剛さん、お亡くなりになってしまいましたね。

    こちらの写真、私の大伯父にあたる人物もいますね。その人の奥方様が加藤剛さんといとこだときいています。

  • #2

    野村幸一 (水曜日, 11 7月 2018 04:05)

    この写真、修正無しの物メールで送っていただくのは可能でしょうか?

  • #3

    今井一光 (水曜日, 11 7月 2018 05:05)

    ありがとうございます。
    あまりにも皆さん若すぎてほとんど判別不能です。