家康が二俣城攻城のために付けた城 鳥羽山城

地震に続き関西、西日本を広範囲に襲った豪雨水害は目を覆いたくなるような画像が次々と飛び込んできました。

山に囲まれて海岸が迫るといった狭小な我が国にあって住居地の選択といえば河川が作る扇状地の平らかな場所か、川上の段地というのがお決まりです。人が今住まう場所というものはまず河川によって作られたのでしょうから。

 

前者の場合は大雨が降って川が氾濫すれば低地であるが故に浸水し、後者の場合は弛んだ谷の土砂が崩れて押し寄せるということになりますね。

このような件は歴史上あまり表には出てきませんが私たちの御先祖様が有史以来対峙してきたテーマだったことは想像に難くありません。

 

今のように治水技術が確立する以前は低地に降りての農耕はタブーだったと思いますのである程度の高所が安全な場所だったという感覚でしょう。

しかしそれですと稲作に不可欠な水の手配に頭を悩ましますのでどうしても広大で水が手に入りやすい平地へと移動していくという歴史があったはずです。

葦が茂る湿原を開いて田を作るという作業です。

 

これは「人智を超えた自然の災害」(大雨による川の氾濫)について「それも有る」ことを前提に田を開墾してきたのだと思います(勿論水を管理しようとする努力はし続けたでしょうが)。

何年か、あるいは何十年かに一度の大洪水による損失があることを承知で山から降りてきたというものです。

それを畏れて水に困る高所に居続けたとしても毎年の高効率な収穫が期待できませんからね。

 

人々はある意味リスクを取って平地に活動の地を移したということでしょう。きっと稲作が普及する以前は水が注ぎこむ平地ほどリスキーな場所はないといった考え方があったと思います。平らかな台地上に住居を構え、山を開いて畑を作るというのがそれまでの安全な生活だったはずです。

 

平地に住居地を限りなく広げ、川上の谷合に住居地として開くなど「住」に軸足を置いた行政は河川管理を忘れて行ったのかも知れませんね。

通常時はせせらぎの様な小川が怒涛の如くの暴れ川に変わる様子を見せつけられてそう思いました。

その「せせらぎ」を日頃目にしている者にとってそのような危惧など笑いながら一蹴するでしょうからね。

 

滅多にない天変地異、天災についてどうしろなどということは言えません(対応すべき事項は多くありますが)。

私たちはいつでも被災するつもりでいる諦観が必要なのかもしれません。

度々大火に見舞われた江戸の町民は何時火災に遭ってもいいように、早く逃げる事と家の作りをカンタンにしたといいます。

要は家財道具は最小にし「火消し」による作業(家を壊して延焼を防ぐ)をしやすくするために華奢な家の作りを心がけたといいます。

 

昨日は千葉で地震がありました。テレビからの緊急地震速報には肝を冷やしましたね。日々日本中で悲鳴が聞こえてくるような。

いつどんな自然の恐怖に襲われても・・・の覚悟が必要なのかもしれません。大自然から見れば人間などちっぽけなもの。

何が来たとしても私など吹っ飛ばされて霧散するでしょうね。

地球の一部、砂粒と同様に・・・を思います。

 

 

さて、昨日のブログにていただいたコメントの中に「外羽山」さんという姓が出てきました。

果たして当地の河原﨑→川原﨑の如くの変化であって「元は一緒」であると決めつけるのはイケませんがその外羽山姓の音から鳥羽山を連想してしまいます。

両姓とも全国的に静岡県、それも浜松に多い名ですし・・・。

 

鳥羽山と言えば湾曲した天竜川に突き出す要害、鳥羽山城があります。天竜川の流れの早い場所でその上流、二俣城の近くでは船遊び事故があったことは記憶に新しいところ。 

また、ブログではこれまでその城址について触れたことがありませんでしたがその名(外波山さん)にかこつけて画像をアップすることにしました。

 

鳥羽山城は二俣城と対峙するような位置関係にありますが、元はと言えば家康が二俣城を囲んだ際の付城(二俣新城)だったからでしょう。

私の画像はかなり前のものですが、この丘は浜松市街を見渡せる場所で近場の若者の夜景の名所とも。

公園化されていますので、昼間に行けば駐車場は営業マンでしょうか絶好の休憩所となっていました(場所はこちら)。