やまのくち 地名+「山口神社」 當麻氏を祀る

日本大学に恨みはないもののどうしても触れたくなってしまうのがあの毎度の会見ショー。

20歳のあの彼が独りで出てきてからは次から次に初めてお目にかかる方たちが強烈なキャラを発揮して自己保身の会見。

政治家や官僚、経営者(スルガ銀行など不祥事を起こした)から学んだこと・・・エラくなる秘訣は「のらりくらりと論点をはぐらかして時として『謝罪』の装いはするが本質については無関係を示す」力量というものを身に着ける事です。

もっともスルガにいたっては経営トップがまだ顔を出していませんが。

 

そしてさらに一つ二つ。

あの学長さんの会見を見て思う事はあの学校はひょっとするとダメダメ?

学長さんが言には「あの反則行為」(問題のタックル)によって「ご迷惑をかけて申し訳ございません」のように聞こえましたので明らかにポイントがズレています。

要は悪いのは生徒もしくは監督コーチとの指示と理解度の乖離そしてそもそも「私とは関係ない」「知らない」件であって各部署に任せているということと「ノーコメント」を連発。責任を逃れたいの意思が垣間見られました。

だいたい何しに出て来たのか連日の不明な会見でした。

 

日本大学はその大量の在校生に排出OBの多さなどスケールの巨大さと知名度によってガッチリ稼いでかなり幅を利かせているようですが・・・それに胡坐をかいている人々の深い心の闇と実体を見た思い。みっともない大恥の躰を晒したというのが今回の件でした。

「責任」の取り方を知らないエラい人ばかりでこの国は困ったものですね。次々に出演されるスタッフの論を聞いていると話のすり替えと露骨な保身ばかりで、辟易。学校というかまるでビジネススクールの如きです。

これからあの茶番会見に出演したみなさん、吉本興業にでも修行をお願いして「お笑い」世界に転向した方がきっと儲かりまっせぇ~。

 

さて「極上の孤独」なる書籍があることを知りました。

私はその本を読んでいません。

読んでもいない本についてとやかく言うのはオカしな事ですが、おそらく内容は「陳腐なものであろう」とそのタイトルを拝見しただけで感じ、ケチを付けさせていただきます。

まぁ無茶な言い分です。

 

というのは第一「孤独」というものに「極上」なる語を付ける事にかなりの違和感があったのです。

要はそんなものはあり得ないだろうというのが私の反発。

 

そもそも人というものは「一人で生まれて一人で死んでいく」というくらい「孤独」な生き物であり、だからこそその「生老病死」の生と死の間の時間は「孤独」でいることは避けたいというのが私の気持ちであり、その件を日頃皆さんに訴えています。

それが昨日も記した「家にいたら死ぬ」「座っていたら死ぬ」なのです。

 

これは運動機能の件のみを言っているのではありませんね。

外に出ることによって得られる「他者とのコミュニケーション」についても殊に有意義であるということです。

人と対面する事により挨拶から始まって会話が生まれますし、外出ともなれば身だしなみにも気を付けオシャレの気持ち、他者配慮と協調性が維持できるというもの。

 

それはそれは独りでいる時間というものは当たり前の如く大量にあるというのが人間です。その孤独時間は時として昨日の私の如く瞑想の時間(いや迷走なのか?)を得たり独りでしかできない趣味もあるものですから、それを全否定するものではありませんがいかにもそのタイトル「極上」付きの孤独推奨らしきタイトルには首を傾げてしまったのでした。

 

本当の「孤独」の辛辣を味わっている人がその「孤独」というものに「極上」なる形容を付けることはあり得ないはずですから。要は「わかっちゃいない」を推測したワケです。

ごめんなさいねぇ読んでもいず、タイトルを見ただけで・・・無茶言って・・・

 

この件、昨日の通夜にて触れました。

104歳で亡くなったお寺の宝物といってもいい「たけ子さん」の往生でしたがあの方は生涯「孤独」とは縁遠く「極上」の「人間(じんかん)」にいらした方でした。

それが極楽浄土、こちらは「極浄」の世界と。

 

また、最近「エラい人」たちの会見での見え見えの言い訳について「往生際が悪い」が如く言われることがありますが、坊さん的にいってその語にも違和感大アリです。

それはいわば「観念」「死に際」を言っているのでしょうが当流で「往生」とは文字通り「往って生まれる」ことです。

「極楽往生」のことですね。

その件ネガティブイメージばかりの蔓延で嫌になりますが「成仏」という語ですら当流では「亡くなること」とは次元が違うのです。

極論「目出度い」ことなのですね。

 

たけ子さんの棺書には年齢の頭に「寿算」と記しました。

当流ではこの世に人として生まれたことそのものが目出度いことであって有り難くもこれまで命を続けてこられたことに感謝するということでそう記します。

よって世間様でよく言われる「享年」は使用しません。

享年でも悪くはないような気がしますが「寿」には阿弥陀の姿(無量寿)が見え隠れしているようで好きな語です。

 

さて先日記した傘堂の脇には大池という池があって二上山の登城口があります。またその南側には當麻山口神社が(場所はこちら)。

この「山口」とは単純に「山の口」の事で、よって日本全国よくある名称。

そして結構に古さを醸し出している神社ですね。

脇道を通る登山者はお見受けするものの境内には人なし。

私は神社に行っても「南無阿弥陀仏」のみの不作法者ですが、一応は石灯篭等工作物を見て廻ります。

一番の石造工作物は・・・井戸の枠でしょうか。

自然石で囲っていましたが、井戸と言えばどうしても中を覗き込みたくなりますが、それもかなわず退散しました。