二本差しが怖くて田楽や焼豆腐が喰えるか 団子も

昨日の甲子園は、ただ単純に自分がよく知っている地というだけですが・・・、3試合の勝者が第一試合から滋賀、京都、滋賀という具合。各お相手も強豪県からの出場でひょっとすれば上記結果が真逆となることも考えられましたから結構凄い事になったと感慨深く。

 

そしてまた昨日、神奈川は東海相模高校の評価として「決勝進出100%」とスポーツ紙にて見かけました。

私は神奈川県生まれですが、今は静岡県人。

東海相模は静岡高校との対戦が決定していましたのでその表題にはカチンときましたね。

そもそも神奈川県人は他人を小ばかにしてお調子ずくところが多分にありますので案外その手の報道に今頃、表彰状授与と優勝行進の絵でも描いている様子が思い浮かんでしまいました。

失礼ですがそのような県民性が「少なからずある」と私は認識しています。

 

特に腹が立つのは「100%」との活字。

比較的ファンの多そうな学校で新聞屋さんが売り上げを伸ばすための煽りとは思うものの、「絶対決勝戦に出られる」強さの標榜にはこれからの対戦相手を舐め切っているとしか言いようがありません。仏教の教えにも反しますし。

意地悪い軽薄者の私としては調子づいている人間が足元を掬われる様子を目にすればまさに溜飲が下がるというもの。

特にそれは国会議員さんなどの場合に顕著です。一番に調子こいてる輩と思われます。

 

ここは一つ静岡高校に気張ってもらって相模の鼻を明かしていただきたいと秘かに思っております。

あの学校(相模)の「伝統」でもありますが、相手を見くびって強振、強硬策が裏目に出て敗戦というパターンがありますので・・・

この件サッカーW杯にて日本が1勝するよりもはるかに確率は高いと思っています。

 

さて、表記の表現「二本差」とは武士・侍のこと。

町民から見た「武士」のイメージとしてはやはり権力を傘に無理難題を強いる横暴の代名詞です。時に無礼討ちなど無茶をやらかしますね。

町民からすればそういう連中はいわゆる道化の如く感じていたところもありましたね。

ちなみに「サムライ・ジャパン」なる語もありますが、一方解釈としてそれは「お茶らけジャパン」の如くで、江戸町民の感覚からすれば笑う所、いや馬鹿にするところなのかも知れません。

 

その侍どもといえば「大小」(大刀と小刀)の2本を腰に「差す」ことから「二本差」と。

また「刀」といえば2本セットというのが一般的ですので「大小」という言い方もしますね(江戸弁丸出しのお芝居ではしばしば「でえしょう」)。

西部劇でいえば2丁拳銃。ガンマンですね。

また「差す」に対して「佩く」がありますが、刀と太刀の違い、差すかぶら下げるかによって違う表現となるのですが、江戸期のものといえば「差す」のが大小二本ということになります。

 

そこで表記「二本差しが怖くて田楽(や焼豆腐)が喰えるか」は町人がそれら悪辣振る舞う「侍」どもに「遠慮することはない」の「気風の良さ」であり江戸町民たちの「潔さ」も感じます。今風にいえば役人どもに「忖度」などしないという意気ですね。「武器」などちらつかされても決して動じないというカッコよさです。

 

まぁ現代の「二本差」の代表といえば国会議員殿はじめ刀を権力に変えた傘の下に調子づく者たちの事ですが、現在の国会内で問われている「真相の究明」と二枚舌の件、そっちの方でも「溜飲が下がる」という結末を待ちたいと思います。

 

私たちはあの人たちの諸所の行為に「ぼんやり」していてはいけません。まっとうな庶民が愚弄されいると言っても過言ではありません。

放置すれば「ただそれだけ」のちっぽけな国民であると世界から虚仮にされてしまいますよ。あのトランプにも足元を掬われたばかりです(鉄鋼・アルミの関税対象のままの日本)。

 

このムカつき感の解消、お芝居のセリフ啖呵では「溜飲が下がった」ときは大抵「ざまぁ みやがれ」ですのでそれが囁かれる時を待ちましょう。汚い言葉は神奈川生まれ、お許しを。

 

「神仏の罰」への畏怖はなくなって今、政治屋さんもそれらを祀り上げる人々も得手勝手のし放題。

仏罰は絶対(100%)ありましょう。

私はしょっちゅうの事ですし数々の痛い思いもさせられています。

特に人というものの命の件も。何といっても「平等施一切」ですからね、仏法は。

歴史の道理からすれば「時」というものが解決するものですが。

 

画像は昨日頂戴した法多山土産。

この時期限定の餅で、あっという間に売り切れるという代物のよう。お初のものをおいしくいただきました。

やはり串に刺さった餅で見た目は「五本差」。

気が利いてます。ただし1本づつ外れる様になっていますがやはり「2本」が適当でしょうか。

勿論私は「2本」にこだわって、表記台詞を吐いていました。

「饅頭怖い」とは違いますね。

 

残りの画像はすべて小堤山の桜満開の図。

最近は昔と違って「桜の森の満開の下」については「恐ろしい」という感覚が薄れて、単純に「愛でたい」と思うばかり。

これも齢のせいでしょう。