火伏と言ったら愛宕さん 毎月行く習慣は

運動不足です。

毎年この時期にその不満を漏らしていますが要は私のヤル気の無さを嘆かなくてはなりませんね。

理由は寒いのと風が強いから・・・

本来ならちょくらと二連梯子に載ってやるべき仕事があるのですが、こう風が強いとその実行の踏ん切りがつきませんね。

強風は火事については大いに不安にさせられますが、何をするにしろ集中力を欠くため外仕事には具合が悪いですね。

 

と言いながらどうこう理由を付けてオリンピックのライブ放送にかじりついている私がありますが、これは贅沢なものです。

奥方は「テレビっ子」と罵ります。

住職とはよく言ったもので「寺に居るだけ」ですからね。

(ただしオリンピックの件、国レベルの政治的演出には吐き気をもよおします)

強風といえば、あちらでも大陸からの風によって各外競技の選手たちを悩ませていました。まったく気の毒の一言。

 

さて、義母の相続の件に関わって東奔西走する奥方を見続けていますが、煩雑な手続きの連続でまさに「くさくさ」でしょう。

苛々が伝わってきます。

不動産の登記依頼から預貯金・保険類の整理のために戸籍を追っかけて各役所からの書面集めは面倒このうえないそう。

どちらの金融機関もおカネを預けさせる際には絶妙の誘導を行いますがいざ解約・出金となると対応が渋りますね。

まぁそれも人情ということでしょう。

 

義母とその亡くなった妹との関係を示す確定的な証拠となる書面があって尚また、他の相続者がいないことを確認する作業をしなくてはならないので銀行の指示する書類の多さはわかりますが進行は遅々としている感。そして奥方が言うには叔母がどのような資産運用をしていたのか把握できていないということ。

銀行屋・株屋さんのセールスにのってのお付き合い程度なのか外債やら株やらの運用の状況は垣間見られるようですが、実体は不明といいます。

急逝した今となってはその件は永遠に不明ということ。

 

ただし、わが国の金融庁に認可されているようなまともな金融機関においては、ある程度の時間さえあれば、取引明細の一つも送られてくるのではないかと高をくくれるところではあります。

 

ここのところブログでは奨学金破産について記していましたが今朝の新聞では病気によって仕事を辞めることになったことから破綻したという記事がありました。

あらためて感じたのは人は将来の「私が病気に」の事は「棚の上」で行動するものなのだということ。

華々しい未来しか考えがつかないというのも頷けますが。

 

「そんなネガティブな事を考えていては何もできないだろ」とお叱りを受けましょうが、あとあと降ろせるはずと見込んで背負いこんだ重荷のリスクはその「病」によって大きく人生そのものをどん底に落としてしまいますから。

返済のアテというものは就労もさることながら健康とそれなりの長生きは不可欠です。完済前に亡くなってしまう事であってもそればかりはありうることです。

 

私がもう一つ「さぞかし大変だろうなぁ」と思っていることはあの仮想通過の件、それもその相続です。

たとえば私の息子がそのバカ騒ぎに一枚噛んでいて、大層な稼ぎがあったとして、何かあったとしても私にはどうすることもできませんよね。

そう考えていると昨夕ニュースがありましたね。

数年前に亡くなった息子のビットコインについていったいどのくらい保有しどう調べていいかもわからないそう。息子はコインの「採掘」をこのブームの以前から手掛けていた人だといいます。

 

デジタルウォレットというシステムへ入る「鍵」がわからないからなのですが、その世界では個人保有のコインがその人物の死亡後にアクセス不能になるケースについては放棄されることになるというのは分っていたことのよう。

いくら稼いでもその複雑な鍵を「被相続者」に伝えているというケースは少ないでしょうね。

 

人は自分の四苦(生老病死)のうち特に「病」と「死」については知らんぷりを決め込むものです。

負債を残して保証人を困らせるというのも困りものですが財産を残してもらっても色々と苦労は絶えないものですし、それが分かっていて放棄せざるを得ないというのはまたさらに辛いこと。まぁアレに関してはまともな金融機関ではナイというイイ例でした。

相続の件、ぼんやりしていると「あっという間」です。

 

画像は愛宕神社。

江戸時代の庶民のお遊びを含むならいに(勿論信心大事も)

「伊勢へ七度 熊野へ三度 愛宕さまへは月参」と語呂良く言われましたが、毎月愛宕社参りをする目的は「火伏」。

火事は自身の火の不始末を起点とするものばかりか、もらい火の恐ろしさがあります。

その件はどうにもならないただ地団太を踏むだけの恐怖です。おカネがあってもおろせない歯がゆさの方がマシ。