ここでも定信の嫌がらせ・・・慶光天皇の命名

雨が降る直前というものは案外温かくなるものですね。

境内をいつもの薄っぺらい法衣でいたとしてもまったく大丈夫。昼過ぎまではいいお日和で嬉しい誤算でした。

 

先般、静波の笠原家墓地の梅たちがぽちぽちと白い花が咲き出していましたが、拙寺境内とは陽当たりが大分違うのですね。

昨日の段階でそれと同種の梅はたった一輪だけですから。

 

さて、松平定信といえば遠州相良の殿様、田沼意次を失脚させて以降当相良の地の衰微のきっかけを作った「憎き仇なる人」として認知されますが、彼の恣意的行為の空回りはこの相良の件だけではありませんでした。

恣意的というのは彼自身の境遇とその挽回の苦労にその発芽があったのだと思いますが、結構にその怨恨を晴らすが如くの自分本位の押し付けの政を感じますね。

 

松平定信の老中がなく、田沼の重商主義がその後の幕府の柔軟外交として繋がっていれば日本は戊辰戦争などないスンナリとした近代化を迎えられていたかとも思うところはブログのどちらかでも記していました。

 

そして彼の今一つの「恣意」は慶光天皇の件ですね。

昨日ブログの蘆山寺陵の主ですが、実は慶光天皇なる名は歴代天皇の名に列していません。その名を見て「?」と見慣れぬ名を思った方もいらしたかと。

これは後世「追尊」というカタチで明治天皇によって贈られた名で元は「閑院宮」が通称です。

昨日記した五輪塔前にその石標が見えますね。まぁ適当にパチパチ撮ってきた画でしたが。

 

その閑院宮典仁親王は光格天皇の父親。

光格天皇は後桃園天皇の危篤によって急遽養子入りして皇太子、八歳で即位します。

成長してある疑問にぶつかります。

実父の閑院宮典仁親王が親王どまりなのに子の自分が「天皇」とは申し訳ない・・・と。

ということで幕府に父に天皇の尊号を与えたいとの打診。

 

老中松平定信はそれを頑なに拒んだというものです。

天皇家対幕府対立の構図と発展したそれを「尊号一件」と呼びますね。

 

このわだかまりがその後の討幕思想に少なからず繋がっていったかと思います。この二つの松平関りの件がなかったとしたら歴史の流れはまったく違っていたかと。

 

明治天皇によりその「恨み」は晴らされて「慶光天皇」の名が贈られたのですが、何を隠そう明治天皇は慶光天皇の直系にあたる人です。

 

舞鶴殿は玄関前に鎮座、外の陽ざしは最高のよう。