いつの時代も 浮気はダメよ ふたごころ

「一向宗」の呼び名については幾度かブログで記しています。

本来のその意味とは違ってなぜか浄土真宗を他の人がそのように呼ぶことに対しては「詮無き事」、「門徒モノ知らず」と言われても同様に「お構いなし」を決め込んでいたことから大きくそれら流布されて皆さんがそのように呼ぶようになったのでしょうね。

要は肯定も否定もしないという曖昧なスタンス。

元はといえば三河の一向一揆で家康が辛酸を舐めさせられたことから以来「一向宗」が定着したよう。

 

私もどうでもイイとは思っていますがその真宗門徒衆を殆ど外から見たような語に対してまったく悪い気がおこった試しがありませんね。

むしろ後者、「門徒モノ知らず」など私は嫌いな言葉でないことはブログでも何度か記していると思います。

誇らしく胸を張ってもイイかとも、そんなくらいです。

 

喩え「知るものか」と言ったとして

「しらざぁ 言って 聞かせやしょう」などとマジにお説教されたとしても、ハイそれも「知るものか~」とより以上に開き直りそうです。

まぁ別の意味でも「無知の知」は立場上悪くないことだと思っていますし・・・

 

アホ・バカと言われようが阿弥陀さん以外の神仏の事は二の次三の次、敬意は払いますが特に知らなくていいのです。

各宗教施設を訪れて、イキナリ作法等のご注進を戴く事がありますが、育ちが門徒寺であったことからか、私の悪性かはわかりませんがただヘラヘラと笑っているだけです。

勿論、拙寺に観光風の参拝者が来られて、当流にはない何かの件

があったとしても私からは何も言ったりしませんし・・・

 

腹の中で「知らなくてもOK OK」とふんぞり返っている私がしばしばあります。

 

そうなのです、他の神仏に対して失礼な物言いですが、それらについて敢えて知る必要がないということ、当流ではそれらのことを「雑行雑善」やら「雑行雑修」(蓮如さんの「改悔文」等)と呼んでいます。

その「雑行」(ぞうぎょう)の文字は蓮如さんの御文でも頻繁に登場してきますね。

 

「雑行」は「浮気」です。

テレビの雑記事に芸能人の浮気のすったもんだについてよく

報じられていますが「わっちゃあ、 こちとら しるものか」ですね。

結論はそれって仕舞にはロクなことがない。

一つのモノ・コトを一途に大切にそして信ずることこそ救われるということ。

たくさんの利益を得ようと思いたくさんの仏たち神々に参らんとしてもその卑しい強欲はきっと見透かされて「うまくいきっこないでしょ!!」というところも何とも合理的と思います。

 

阿弥陀さん以外の仏や神に心を向けることを「二心 ふたごころ」といって今云う「浮気心」を蓮如さんにはその御文の中で

指摘されています。ということで最初から阿弥陀さんに向かっていない人は無関係です。ただし昔から「忠臣は二君に仕えず」という語もありました。

 

そして蓮如さんは「雑行」に加えて「ふたごころ」という言葉も多用していますね。

一帖~五帖に掲載されている八十通の御文の中でざっと見れば

12回を数えることができました。

 

御文からそれらをピックアップしてみると・・・

 

一帖-2

ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の

一帖-3

一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて

一帖-7

ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて

ふたごころなく一念にわが往生は

一帖-15

一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり

二帖-2

弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を

三帖-1

かの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて

三帖-2

後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころ

三帖-3

ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつり

三帖-4

弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じ

三帖-7

阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生

五帖-7

なにのやうもいらず、ただふたごころなく一向に阿弥陀如来

 

画像は三帖の御文の「ふたごころ」の箇所5件。

御覧の通り「一向」の語も蓮如さんによって同時に記されているところで、「一向宗」呼び名もまんざらではありませんが。