松浦成清二十五歳 江浄寺で自刃 可哀想だけど・・・

毎度のお詫びから。

大河ドラマのストーリーがぶっ壊れ始めたという件、いい気になって記していましたが(昨日)もはや他人事ではありません。私のブログもそろそろ末期的症状。というか初めからか・・・

誤字脱字・・・酷すぎます・・・。

ことに「書きっぱなし」がイケません。ノーチェックで一日すぎてたまたま目を通せば・・・「恥」のオンパレード。

まぁ「そんなものでしょ」と御了見くださいませ。

最近は寒さが身に染みる中、雑務に追われて疲労感もupup。

適当に花ガラでもと思っていれば予報にたがわず雨がポツポツと降り出したあたりから時間に追い回されていました(結局ポツポツで終わりましたが・・・)。

何よりまた暗くなるのが早すぎる!!と感じるばかり。

 

暗くなってから特に日没後の行動を控えたいですね。

通事故が多発する「魔の時間帯」と呼ばれるものがあるそうです。それが17時台と18時台で10~12月の事故発生率が飛び抜けて多いというデータがあります。

これは「明→暗」に急激に変わったということと通勤や学校からの帰り路に人が溢れるからですね。

総代さんの一人ですが「日没後は怖い」から自動車の「運転はしない宣言」をしている方がいます。私もこの畑と田んぼだらけの地域でも「怖い」と感じることが多くなりました。

 

真昼間でもかなり怪しいと自認する私です。

今や日没後は家にいるのが一番ですね。最近は夜間の走行に「一か八か」で走っているような気がしないでもありません。

一番に「ぶっ壊れている」のは何を隠そう「わたし」でした。

 

さて昨日記した「江尻の浄土」江浄寺。

信康の五輪塔の近くに今一つ変わった墓があります。

その名も「恋塚」と現代風で少々チャラい名(失礼・・・)がつけられています。もっとも2005年に再建された新しい墓のようですが古い縁が残っているようです。

 

肥前平戸の名家松浦氏、平戸藩主松浦隆信の弟の松浦成清がその件悲哀と読むか、状況を読めない軽率と感じるかは別として1624年にこの寺で腹を切ったことから。

元キリシタンの松浦隆信は禁教令の発令によって棄教したという経緯。その後駿府城普請の際に領内のキリスト教会の破却を命じられていますがそれに自分が「試されている」ということを感じることは当たり前のこと。今一つ徳川家に信じられていないかもという不安はあったはずです。

夏の陣にも遅く参るなど幕府の意向によっては家の継続に疑義が発せられかねない不安は付いて回っていたかも知れません。

 

そこにきて参勤交代の際(当時参勤交代にて東海道を通過する際はこちらの信康の墓参りは慣例)江戸詰めの弟、松浦成清が幕府に無許可で江戸を離れてこちら江尻にて兄と合流したとのことです。理由は兄隆信が「成清の許嫁を側室にする」という話を小耳にはさんで、その真意を問うというものでした。

 

人は美談にしましょうが当時の状況を考えればそれは誰が考えてもアウトでしょう。責は成清にあり。

彼の短慮により家そのものが危うい状況になりましょう。

彼が一人腹を切って何も「なかったこと」にしてもらったということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (日曜日, 10 12月 2017 09:04)

    松浦党の松浦さんにこんな縁があったのですね。恋は盲目なのかそれとも誰かがそそのかしたのか。

    真相はやぶの中ですが、掛川や吉田の松浦さんたちとは関係なさそうですね。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 10 12月 2017 18:30)

    ありがとうございます。
    倭寇の源流ともいわれる松浦にあって、その系の不祥事はあまり表に出したくないというのが本音だったでしょう。改易取り潰しの上げ足を淡々と待つ幕府が外様の6万石の不祥事に目をつぶったのは名家であるのと同時に薩摩の監視役と舟使いの妙、勇猛果敢な「略奪の家系」に一目を置いたからでしょうね。