榛原の「榛」は「針」 釘ケ浦と波津の件一説

テレビをつければお相撲の話題ばかり。面倒くさいことで。

素人目に言ってもあの件、ここ数日中に荒事の当事者から「引退宣言」が出ることはまずちがいないと思います。

それがすべてを穏便に済ます方法でしょう。

 

だいたいご時世が違いますよ。

一昔前ならスポーツ世界にはしごき(かわいがり?)等体罰は普通にありましたが、今は「パワハラ」は反モラル。場合によっては傷害事件に発展します。えらい人、えらい職(この場合は横綱)だからと忖度などあっちゃあいけません。

まぁその方向と未練というものを色々感じますが・・・。

 

ただこの国は一応「法治国家」を標榜し特に見え見えの刑法事案は訴えがあろうがなかろうが当局の仕置きが待っています。

モンゴル風処断を万歳三唱で押し付けようとするのはちょっと無理があるのです。アレも一つのゴリアテ化(ゴリおしアテつけの略ではありません)。

 

さて、当地の地名「釘ケ浦と波津」について。

これは色々な説があって何がホントかさっぱりわかりませんが、少なくとも「波津」はかつての「津波」の被害からそれを逆さまにして記したというのは大ウソでしょう。

また、「釘ケ浦」は昔から言われる名称で、大井川~御前崎までの海岸の事を言いますが、よく言われるのは「曲がった釘の様」の如くに湾曲した海岸線だから・・・ですね。

 

しかし「釘の如く曲がった」は少し違和感。

今でこそ「釘」といえば曲がるのは当たり前ですが、昔の釘は曲がりようもないくらい太目でくさびの如く今とは形状が違います。焼き入れも今よりずっと固かったでしょうし・・・。

だからそうはキレイに曲がらない。

 

大正時代に記された当地の文書に「諸説あって詳細不明」としながらも「釘ケ裏名称の起源」についてと記した部分があります。

これは掛塚の鵜飼文六氏の説とのこと。

「釘ケ浦はもとは針ケ浦と書きしをいつしか誤って釘ケ浦と書き、かくて遂に『くぎがうら』と読むに至れりしなり」と。

そしてその『針』は「榛」(こちらも読みはハリ)から転じたであることが記されています。

榛原の語源は榛原(はりはら)であることは推測できますが、これは古き時代は「榛」(ハリノキ ハンノキ)の群生する「原」(この辺りでは台地のこと)だったということでしょう。

それにちなんで牧之原市の運営する文化講座に「はりはら塾」の名が付されています。

 

そしてその榛原の榛(ハリ)が海岸線の地名「ハリガウラ」、その聞き書きが「針カ浦」でそれを誤記して「釘ケ浦」になったという説でした。

そしてまた「波津」の語源変遷は「榛津」(はりつ)→はんづ→はづ。

それが「津」(みなと)の前に「は」を「浦」らしく「波」にあてたのだと推測していました。

この当て字は飯津佐和乃神社の飯津と同様と。

各地古い地名にも時代の変遷によってこのような変化はつきもののようにあったでしょう。

 

これはかつて文書は「聞き書き」によって書写しましたから。「あて字」だらけであることはどちらの文書をみてもあきらかですね。そして今ある正式な「文字」と思われている固有名詞など、殆どが後付けのような気がしてきました。

わかればそれでイイという時代でした。

 

お馴染み拙寺山号と昨日の境内。