磐田鎌田の古い(平安鎌倉)五輪塔 鎌田兵衛正清の墓

現在当家では結構に過大な出費が重なっています。

始まりは先般2度目の台風の上陸の辺りから。

その晩、拙寺は停電になりました。

停電はそう珍しくもないことですし当家の対応力は必要以上にありますので―大量のローソク保有による明かり―逆に一昔前の夜を楽しもう的雰囲気になってただ再開を待つのみになります。まず大抵はものの数分で復旧するものですがこの日は30分経っても真っ暗のまま。

 

2階に上がって北側を見ると外の電気が点きまくっています。

しかし南側は暗いままのようでしたのでこの区域オンリーの停電だろうとそのまま15分程度待機。ここでその南側エリアに住まう檀家さんの携帯電話に掛けてみることにしました。

すると「停電なんかしていない」との談。再び2階に上がって南側をよく見れば電灯の明かりが見えました。

ということで我が家のどちらかの部屋の漏電によるブレーカーが落ちたということ、すべてをチェックすると庫裏の本堂側のどこかでの漏電があることが判明しました。そこの箇所のみ切ったまま復旧させました。

 

本堂側の庫裏といえば以前からネコやらハクビシンの進入路のある場所でこれは「電線を齧られたか」という推測。そのまま1週間以上放ったらかしにしたのち、電気屋さんを呼びました。

すると屋根裏には入らず、「まずは外回りからチェック」といって外に。エアコンの室外機の漏電事案については以前から聞いていましたがそちらにはエアコンの設置はありません。

怪訝に思ってどういう結論が出るか待っていると「判明しました」と。

驚きました。本堂側客用トイレの排水槽にエアを吹き入れるブローが故障して漏電していたのでした。あの台風の大水に浸ったか経年の劣化か原因はともかくその交換着手までノロノロと手をこまねいているとだんだんと異臭が漂うようようになってしまい、慌てて新品を購入した次第です。

検討時間が長かった理由はアレの価格は様々。

奥方は業者には依頼せず、他所を色々あたって購入し自分で付け替えていました。頼もしい事です。「アースを取るのが面倒だった」と言っておりました。

 

お次は私が「免許取り上げ」と罵られた事案。

某役場の駐車場に入る際、低い鉄柱の存在に気付かず、車のドア下部を凹ませ地団太を踏みました。

目立たないといえばそうですが、それをそのまま放置していれば「なぁなぁ」になって今後注意が散漫になることは必定。

けじめをつけて泣く泣く修理に出しました。

以前息子が車を傷つけた際、修理代として月々2500円を仕送りから減額していますが、この大ドジを踏んだことに私の家中地位はますます低下しました。

奥方から「次にやったら免許はないな」の声が身に沁みました。

 

その次は経年劣化で3か所のうち2か所火がつかなくなったガスレンジの交換。このレンジは強烈に恐ろしいレンジでネコが手を伸ばして点火スイッチを押したことがあります。

奥方がこのレンジの新品交換によって上記舌打ちをするような出費と家中雑務のモチベーションを維持できるなら仕方ない投資ではあります。

まぁネコの手でも押せる老朽化したガスレンジなど恐ろしくて使う気がしませんね。

 

さて、先日記した菊川は棚草城の下で会って付き合ってくださった鎌田さん。そう、ご先祖は源義朝の郎党鎌田政清と仰った方。立ち話でありかつ、唐突で予想だにしていない名「鎌田」でした。まぁ普通に考えれば「如何にして遠州に」というところでその関係について疑問に思うことは当然でしょう。お墓でいえば野間か鎌倉ですからね。

しかしながらその遠州菊川棚草から少々西に行った磐田市には「鎌田」という地名があります。

 

その地には「鎌田兵衛」五輪塔があります。

「鎌田兵衛」は政家か正清でしょうが、彼らを主君とした家臣がその出身地であるこの地に供養塔を建立した件が「遠江古跡図会」(江戸期)に記されていてそちらには「鎌田正清墓」とあるとのこと。

磐田市教育委員会によればこの五輪塔の石材も判明していて緑色凝灰岩(当目石)―焼津浜当目産―といいます。

目立たずひっそりと人目につかない場所にありますが、地元の方々によってきれいに維持されています(場所はこちら)。

 

鎌田という地ながらこちらは御厨(みくりや)という別名があります①②。③の図は東側から五輪塔のある覆堂方向を撮影しましたがあの1本目立つ大きな木が目印です。

 

最後の画像2枚が祠の北側、祠内紹介文の「萬福寺」があったあたりでしょうか。

 

鎌田の地があってそこの出身者が鎌田の墓を建てたとありますが、同時に「鎌田」を名のっていたことも考えられますし、一族の者たちがあったことも。

ちらから菊川棚草にその「鎌田一族の某」が流れたとしても不思議ではありませんね。

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (木曜日, 23 11月 2017 22:47)

    よく考えると 源義朝の時代より前は、鎌田氏や横地・勝間田が存在するように、この近辺は源氏方で、その後平氏勢力伸長に伴い平家方が支配し、さらに鎌倉幕府が成立してもう一度源氏方に戻ったのではないでしょうか。平家方支配の過程で鎌田氏が棚草に流れた、と。

  • #2

    今井 一光 (木曜日, 23 11月 2017 22:55)

    ありがとうございます。
    駿遠の地は京都と鎌倉の中間地にあって源平の交錯を推察されるような
    古跡が結構残りますね。