棚草城にまつわる牧野氏 康平四年(1061年)

「依存、依存」と適当な事を記してきましたが、現代社会においてある意味私が「依存」しているのは自家用車。

今の生活の中でハッキリ言ってコレが無ければどうにもならないという不可欠アイテムです。

 

しかし最近のご時世は年配者の事故多発ということで免許更新時に70歳をすぎると余計なチェック項目が増えて75歳を過ぎると症状?によってさらに実技含む試験があるようです。

甚だ面倒くさそうな件、生きていればのことではありますが、ここでも「齢はとりたくないもの」と思うばかり。

 

このお上からのお達し(高齢運転者制度)はまぁ社会の要請に一応は応えたといったところで、免許証の返納をある程度期待する施策でしょうが、実際問題として運転が必要な人にとってはただの形式的ハードル程度のこと。

それに関わる手数料の収入の方に魅力があるかも・・・などと言ったら叱られる?

 

私の存じ上げるその方は以前、軽度の交通事故を3度立て続けに起こし、家族縁者、そして主治医からも運転を控えるよう指摘されているのですが、強行に「大丈夫」を主張してその高齢者免許講習に出向き、合格を得たとのこと。

聞けば、前回の事故で壊れた車を修理してこれからばんばん走り回る意気込みとのこと。

 

気づいた点は、家族等近親者は「絶対に運転はあり得ない」というスタンスであるにもかかわらず、その方の周囲のお友達が「まだまだ大丈夫」とイケイケ風の雰囲気で囃し、本人がその気になってしまうというところ。

こういう場合の「お友達」のリップサービスはタチが悪いものがあって家族の希望と相反してしまいます。

 

何が正しいのか・・・私にはわかりません。

 

さて、棚草城。

棚草の3つの段丘に城に関わる名が残り真ん中の「本城山」が「棚草城本郭」(そちらの画像ABCのB)という説が現状。

では他2つの段丘は?というのが普通に思う所ですが、結局「城の形態」を感ずる遺構も見当たらず、私の興味としては墓地のみですね。

 

AC両台地とも西の端にあってこちらでも「墓地は西面」のパターンを確認してそれぞれを確認しつつ歩きました。

Aの墓地は新しめの墓碑が並んでいましたが、それに対してCの墓域には興味深い墓碑と墓石に出会うことができます。

 

牧野家の墓碑に記された内容は驚きますよ。

牧野家初代は牧野與三兵衛で没年が康平四年(1061年)と記されています。「棚草に城を初代より・・・・」の件も凄い。これは口伝による記述とは思いますが・・・。

 

先般も本城山の直下に源義朝配下鎌田末裔と言われる方について記しましたがそれをも100年は遡ります。

また関わりのありそうな三河の牧野家の出自を推測する鎌倉期よりずっと以前から「牧野」を名のっていることになります。

この辺りの件はどちらかで混同があったのかも知れません。

1000年の口承となれば内容もかなりおかしくなって当然のこと。

 

これもまた何が正しいのかはわかりませんが、この家の系がどちらかの早い段階で荘園の在地管理を旨として都から下向した某が室町期頃に(三河あたり?)牧野からの婿を取ってそのままその名を名のったのかも・・・などとひらめき程度の考えが思い浮かびました。蔦柏が記されていますが三河の牧野氏の家紋は三柏、同系列も推測できます。まぁ家紋は参考程度です。

墓碑にある「ずっと神道にて」の件、古来から「柏」は「柏手」というくらいで「ひょっとして元は神官」とも想像の色々が広がります。

 

尚五輪塔及び宝篋印塔残欠は牧野家墓域でもおそらく墓地管理者たる家の墓周辺にあるものです。

 

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コメント: 2
  • #1

    クリクリ (水曜日, 08 11月 2017 00:25)

    この辺りは城とはいってもあまり標高はありませんね
    横地や高橋のほうがよほど険しいですね
    あのあたりの牧野さんは今でも結構なお屋敷です
    それから周辺の五輪塔は結構時代がありそうですね

  • #2

    今井 一光 (水曜日, 08 11月 2017 07:27)

    ありがとうございます。
    高低差もなくお気軽ですね。
    塩の道の街道筋、見晴らしがよくチェックポイント等
    地の利はありますので高台の屋敷としてあったものと。
    荒れだした本城山本郭推定値の茶畑を整理してから発掘調査して
    何かの結論を出していただければいいのですが。堤城といい棚草城といい
    菊川市教育委員会の腕の見せ所ですね。