古城町続き 藤原邸閑院と今の妙顕寺

最近の若年層事件の頻発が目立ちます。

まずは「自分の息子を心配していろ」との御指摘がありそうですが、あくまでも一般論として・・・。

先日報じられた静岡の事件。

私が一番に嫌悪しているあの「ゲーム」というものへの没頭から転じた狂気についてです。

父親からゲームについて注意された高校1年の息子が「激高して父を刺殺した」という痛ましい事件でした。

 

ゲームという「ただの娯楽」と考えていたアイテムが人を、いや肉親を殺めるきっかけとなるなど、十分に世の中狂っていると思う事ですし、それはあってはならないことです。

いかなるお遊びの範疇のもので、どういった種類の「16歳の楽しみ」だったのかは知る由もありませんが、私たちはアレに関する許容と鷹揚の考え方は今一度修正していくべきかも知れません。

最近子供が、そして社会がオカシイのは「ゲームが原因である」という仮説をたてるとしたら果たしていかなる反論が出て来るでしょうか。

 

ゲーム会社の大人たちは日々「儲けの種」であるゲームの新作を模索しています。

誘引し没頭継続させることだけに心血を注いでいる様子をうかがうことができます。

どうやってハマリ込ませて課金するか。ただそれだけですね。ビジネスといえばビジネスですが・・・。ただそのカネ儲け、おかしいと思わないですかね・・・コントロール仕切れないのでしょうかねぇ。

 

それが「親を殺してまでゲーム継続を守る」というところにまで精神構造を変化させている事に焦燥感を抱きます。

この件、彼特有の問題として片づけていいのでしょうか・・・

何よりその行為がゲームの継続どころか、わが身人生そのものの継続を危うくするということのリスク思考までをも消し去っているのですから。

その許容については「社会の病的重症性」を特に考えると、もはや容認できないことです。

一言でいえば「バーチャル非現実世界」へ誘うそれは現実人間関係の醸造期を阻害して場合によってはその人の人生そのものをも破綻させるというところに繋がるということでしょうか。

 

さて、一昨日相良に帰宅してヘロヘロになっているところでブログを更新したのですが、結構いい加減な画像(昨日の②)をアップしていました。

今一度本日も①にアップしますが、そもそもあの駒札は字が消えてしまって何が記しているか判読不能でした。

 

その内容は「京都観光ナビ」に記されていますので転記します。

「ここから北西に当る西洞院通、押小路通、油小路通、二条通に囲まれた地域は、平安時代から鎌倉時代の初期にかけて藤原氏の邸があった所である。

当初は藤原冬嗣の邸であったが、11世紀初期に藤原公季が伝領してから「閑院」と称した。

また、高倉天皇の時代(161~1181)大内裏が甚しく荒廃した為、閑院邸が里内裏(臨時に設けられる皇居)して利用され、ついで後鳥羽天皇もここで皇位を承継されるなど朝廷の中心となったところでもある。

以来、後深草天皇に至る9代90余年間、里内裏ともなっていたが、正元元年(1259)五月に火災で焼失した。

 

閑院の南殿にて月前松を詠める 

「いまはまた 世々をかさぬる 庭の花 

    ふりてぞみゆる 秋の夜の露」 ~順徳天皇~ 

                        京都市」

 

秀吉はそういった一昔前の公家権威の盟主「藤原」に縁深いその地に自身の「これから」を準えて「城」を建てたということになります。そこでなくてはいけなかったのでしょうね。

そして秀吉に追い出された格好となった妙顕寺はこちらから北方向にいった堀川寺之内、その名も妙顕寺町(場所はこちら)にあります。この辺りもぶらっと歩きましたが塔頭寺院も各あるよう。私が一番に気に入った景色はあの「朽ちて滅ぶ」を表したような「絵」です。

築地塀が崩れて廃墟の様に変化するところここでも「無常」を感じます。