井伊直平は社山城には行っていない 社山城

先日は東京にお住いの90歳になる統計学の先生(女性)が静岡にて講演を行ったあとその足で拙寺にお参りに来られました。

フランス語ペラペラで頭脳明晰と聞きますが耳も目も衰えている感はありません。

さすがに歩行の際の足の運びは自信がなくなっているようですが、東京の自宅から公共機関とタクシーを駆使してごく当たり前の如くやってきたとのこと。

 

80歳を過ぎてからも新しい習い事(オルガン)を始めて益々意気軒高。つい私も「カレーライスはお好きですか?」などとくだらない質問をしてしまいました。

勿論その付き合いも「大好きでよく食べるよ」と気軽に応じてくれました。

 

ざっと今回の講演の内容をお聞きすると「懲役等で収監された人の釈放後の再犯率について」だったような。

これは相当高い率で再び刑務所の門を叩くという傾向があるようです。

 

私としてはどちらかと言えば「カレーを毎日食べている人の疾病罹患率」が知りたいところでした。

 

また、新聞紙上では米科学アカデミー紀要に発表された調査結果が報じられていました。

それが「貧しいほど独裁者を求める」というもの。

「貧困」・・・・「人生を自分でどれだけコントロールできているか」を自己評価した点数が低い人ほど、また失業率が高い地域の人ほど、「議会や選挙を気にしなくてもいい強い指導者」を求める傾向が強いとのこと。

 

世界恐慌の荒波を一番に喰らっていたといわれる第一次大戦後のドイツがヒットラーを選び、今回のアメリカ大統領選挙でも失業率・貧困率の高い地域ほどトランプの投票率が高かったようです。

ということで独裁者は自身の政権維持には国民を飢えさせておく(格差大歓迎)ことが一番手っ取り早いことなのでしょう。

北の大将の経営手腕(飢えさせておく)は統計学上まんざら違う方向ではなかったということでしょうか。

いやこの段階は粛清と恐怖政治があるからですね。

一旦独裁者を作るとあとあと困るということなのです。

私どもの国も好き勝手ができる法律いじりができないよう監視していなくてはなりません。

 

「粛清」とはいかにも強い言葉に見えますがコレは要は「人の意見に耳を傾けない」という性質(タチ)が「都合の悪い事を言うヤツを黙らせる」という思考と強権化が顕著な結果を招いていることなのですが、基本「他者意見を尊重しない」傾向の首班を選択させないということが肝要です。

そしてその論文に記された「人生を自分でどれだけコントロールできているか」が「貧困」に結びつくのかとなるほどと思ったところで、「自己制御」の重要性も合点がいきました。

 

さて、先日の井伊直平の鎧橋の件。

大河ドラマではナレーションのみで「描いた」その死。

川名の鎧橋の掲示板もそう記していましたが、それが飯尾連龍の奥方のお田鶴の方に一服盛られて「有玉にて落馬」して死んだということ。

まぁ説としては一番に有力でありますのでもう一つの戦死の場所と言われている社山城攻めの方は記しませんでした。

 

静岡古城研究会の水野会長の記述を転記すれば『「寛政重修諸家譜には永禄六年(1563)九月十八日死す。享年七十五歳。法名顕祖」とあるだけで、死因は明記されていない』といいますので本当のところよくわかっていないのですね。

その年齢のことを考えれば病没の可能性すらありますが、まぁ私も毒茶を飲まされての「有玉落馬説」を取ったところです。

 

その社山城は、天竜川の川向うの河岸段丘上にあります。

段丘上からの城攻めは脆弱性はありうる城ですが、天竜川渡河はキツい行脚ですね。岸から弓の狙い撃ちの的になりえますし

当時でいえばなおさらという感覚です。

しかしもとより敵は誰なのかというのも疑問点ありますね。

 

社山城は八代山とも記し、斯波対今川の時代にはその争奪戦となった城といいます。今川時代はこの地より南にある匂坂城(こちらも)同様匂坂氏(鷺坂氏)の城になります。

ただし築城年代はこちらの方がずっと古く寛和二年(986)に参議中将藤原友実の長子で匂坂(鷺坂)十郎則実が築城したといいます。そして十一代六郎右衛門入道長能の時に社山を菅沼重左衛門定平に任せて匂坂城に出たとあります(城郭大系)。

 

の件も史料的に疑いもあるようですが、宗長日記には「社山に左衛門佐殿在城 配流を以て二俣に退く」とあって「二俣近江守昌長」の築城説もあります(尚、両名が同一人物か不明)。

二俣近江守昌長は「二俣」の如く二俣城を築城したといわれますが、この人は今川家寄親クラスの人物らしく米倉城の築城にも名があって駿河・遠州・三河と転戦・在城していることは分っていますが敗者の今川家臣団ということもあって謎の人物です。

 

とにかくも井伊家がこの城に攻めかかったなどいうのは腑に落ちませんね。

直平が死した時期は未だ今川の息かかっていた時代であり主城たる匂坂城の戦闘そして落城は元亀二(1571)年の武田信玄の来攻です(場所はこちら)。

 

遠州豊田I.Cを出て「ららぽーと」の丘を西に下れば天竜川の砂状平坦地に。

そのまま二俣城方面に台地を右に見て北上しますが、右側に慈眼寺の石柱と小さな社山城の案内がありますのでそちらの右折がポイントとなります。

 

尚、画像はありませんが、お寺に着く前、保育園の手前に社殿の無い「ただの鳥居」が左手にありますが、これが特殊なもの。

こちらの鳥居の奥、北方約25㌔、秋葉神社の鳥居となります。

火伏(ひぶせ)の神ですから生活に密着した地域信仰ですね。

 

慈眼寺に並立した諏訪神社からして武田の雰囲気が十分に漂ってきます。 

寺の脇の道を上がると右側に社山城の案内がありますので以降案内に沿って進めば城の入口に着きます。

車は1台程度は置くことができますがお茶シーズンに上がれば顔をしかめられますね

 

そう高い山でなく何となくの散策で十二分に残存する遺構を満喫できますがやはり冬がいいですね。

東側の二の丸と西側の帯曲輪が見ものですが夏は草ぼうぼうということになりますので。

帯曲輪の小石の残存は・・・投石用か?

 

 

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コメント: 4
  • #1

    野村幸一 (火曜日, 05 9月 2017 10:09)

    ブログ内容と全く関係なくて申し訳ありません。

    先日、外波山氏についての問い合わせをするため浜松市の臨済宗妙心寺派寶圓寺へ手紙を出したところ昨日返事が届きました!

    外波山氏の名字発祥の由来はわかりませんでしたが、外波山氏の大本家である外波山六右衛門という人物が寶圓寺を建立して開山したそうです。開基檀那ということでしょうか…。

    私の直接の先祖にあたる外波山源六と同じの名前も過去帳に記載されていたようですが、源六が没した数年後に源六の三男の善五郎が生まれた事になるので同一人物ではないかと思われます。源六という名前も代々継承しているかどうか更に確認依頼しました。その源六家は現在で六代目になり今も寶圓寺のある寺脇町にいるようです。大本家の外波山家は磐田市に転居。

    お寺を建立できるようなので当時は結構な有力者?だったのかもしれません。

  • #2

    今井 一光 (火曜日, 05 9月 2017 20:01)

    ありがとうございます。
    調査が進んでいるようで楽しそうなところがよくわかります。
    継続しての調査、お励みくださいますよう。

  • #3

    河東村出身者 (水曜日, 06 9月 2017 08:23)

    確か直平は天野氏を攻めに行ったはずで、何で天野氏が社山城なのかはなぞですが、大河ドラマではナレ死でうまく処理されていましたね。

  • #4

    今井 一光 (水曜日, 06 9月 2017 10:56)

    ありがとうございます。
    「天野氏が社山城」の件、やはり首を傾げたくなります。
    それこそ当時の錯乱状態がわかるような気もしないでもありませんね。
    実際にそういった動きがあって情報が洩れていたのか、早とちりなのか、錯誤なのか
    後世誰かが言い出したものなのか・・・不思議です。