井平氏居館跡②殿村館と伊平氏墓地 小田原にて討死

ごく身近にある「まさか」の一つに交通事故がありますが、先日の徳島の事故はその画像からも厳しい現実を見せつけられた思いがしました。私も高速道路を走る機会が多いので、他人事とは思えません。

 

簡単に言ってしまえば高速道路で車両故障で停車せざるを得ないという不運に前方不注意のトラックが追突したという事故でしたが、事故を惹起した運転手の「前をよく見ていなかった」という言葉では原因と責任の究明には至ることはできませんね。

 

何かの結果「前を見ていない」ということになったのでしょうが、その「何か」にも推測できるところがあります。

①まずは「居眠り」。すると運行管理者の責任もありますね。②は加害者の言葉を単純に信じて「わき見運転」。ただし高速道路走行中にリスクを背負ってまでわき見をするほどの物体はそうはありません。水着の美女が歩いていたとでも・・・。

③ラジオ、テレビ、カーナビ等々の操作そして④が今のお決まり、スマホです。

 

息子が運転、私が助手席というパターンも多くなりましたが、追い越し車線からお隣の走行車線を走る車の運転手の様子が目に入ってきます。

そこで思うのがスマホの「ながら運転」をするドライバーが多い事多い事。

走行車線でのんびり走る車はスマホの「ながら」多しの現実。ちんたら運転はスマホしながらの彼らの「安全運転」なのかも。渋滞の要因にもなりますね。

それでいて追い越し車線を走り続ければお上に検挙されますし・・・

 

おまわりさんはスマホ運転の違反を言っていますが、あくまでも目視が基本。なかなか「指導」まではいかないでしょう。

こうなったらどこでもかしこでも動画撮影をして、ナンバープレートと同時に間抜け顔のながらスマホの図を撮影して「後日ご指導」のシステムを確立する他はないでしょうね。

それとも高速道路上の妨害電波・・・。これでは運転手のみではなくなってしまいますね。

 

事故を起こした人も「スマホを見ていた」「ゲームをしていた」の理由はあまりにもアホ呼ばわりされることはわかっていますので、「前をよく見ていなかった」などとあいまいな事を言うのでしょうね。隠れたスマホ原罪はあるでしょう。

 

ご一同「自分は大丈夫」の高慢な態度でスマホ運転をしているようですが、そこでヘマをやらかして「まさか」の「坂」を転げ落ちるのが人間であるということを再認識しなくてはなりません。

それはいつも同様「私も含めて」のことです。

他者の命を奪ったあとにどんな言い訳も通じやしません。

 

さて、昨日の井平氏居館跡とは別に「殿村」の居館跡があります。同様に井平城南麓でスグ近く。この辺り全域に屋敷があったことが推測できます。

井伊家分家の井平氏について平成元年に作られた「殿村館」の掲示板がありましたのでそのまま記します。

 

 

殿村館

「井平氏の初祖井平四郎右衛門直時は井伊左衛門尉彌直(みつなお 井伊家七代)より分家し井平・花平二郷を治めた。この地に居館を構え裏山に八幡宮を勧進、城山には砦を築いて戦時に備えた。井平城は元亀三年(1572)十月武田信玄の将山県三郎兵衛昌景の侵攻を受け落城、この時井平氏は潰滅的な被害を受けた。

このため天正二年(1574)には再び井伊家より井平河内守直種が井平の領主として派遣された。

井平実記には『井平河内守殿は先立て率し給ひ御子息彌三郎、未だ十八歳なりしが此の度の井伊直政殿御出陣につき御幕下に属して小田原に向かひ給ふ』とあるように井平河内守彌三郎は天正十八年(1590)小田原城内にて討死し井平氏は絶家となった。

居館跡は殿村の字名、地名は中村で今に伝えている。

井平氏の墓地は井成にあり、八幡宮は林森神社に合祀されている。

                  平成元年 引佐町 」

 

上記「派遣された」の件。

少々付け加えさせていただければ「井平家継承のため井平に入った」ですね。

殿村館から100mほど北の藪の中には井平河内守直種とその妻そして井平河内守彌三郎の墓があります。

祠の宝篋印塔が直種のものでしょうか、この宝篋印塔はそれらしい形状を保っていますが横に並べられた石塔はあきらかにパーツ取り、組み合わせの姿が見えます。

 

18歳という年齢での戦陣は当時としては珍しいことではありませんが、若殿様は周囲が身を挺して守るものですし、ここでもまさかの坂があったのでしょう。何事も油断大敵。

 

最後の画像が殿村屋敷跡の近くで見た煉瓦造りの土蔵? 

②画像地図にありましたが「銀行」などもあってセンスのいい開けた場所だったこともうかがえます。

井平家墓地と殿村屋敷跡の位置はこちら