新井城~飛んできた三浦荒次郎の首 小田原居神神社 

朝のテレビのコメンテイター御一同が面白い事を言っていました。

『「記憶にありません」=「嘘をついています」と表裏です・・・』とのこと。

24日の国会予算委(閉会中審査)に招かれる「要人」たちがポイントとなる質問に対していつもよく吐かれる台詞を推測して盛り上がっていました。

 

なるほど、都合の悪い事を指摘された時、その言葉は大いに責任から逃れるにベストな言葉ですね。

ただしこれまでの悪役共に使い古された台詞でもあります。まぁ、オリジナルで「自身の言葉」を伝えて欲しいと市民は思いますが「保身第一に生きる腹黒いワル」というものはしばしば「記憶」など無くして「君臨」を所望するものであると私は心得ていますので、どうぞすべてを「なかったこと」にしてくださいというところ。

私は新喜劇で笑いを取れなかった芸人に対して突っ込む言葉「なかったことにすんな!!」の如くお茶の間で拝見させていただきます。爆笑する場面だというところです。

 

あちらの攻防はまさに「首取り合戦」の如く言われることがありますが、議員であろうが役人であろうが、その地位に「恋々と」~他者の腹の中をそう決めつけて中傷する際に使用されるようですが、案外その言葉を吐いた人がまずその通り「恋々」なのですが・・・~しがみつかなければイイだけのこと。

捨てちまえです(「いかにも身を捨ててこそ」空也)。

 

戦国期で籠城(地位を守る)戦の敗者ともなればいともカンタンに首と胴体は離れてしまうワケでして、国会なんぞの「攻防」は死ぬわけではありませんから「別にいいじゃん」と思うところ。

エライ人はとかく「もっと」エラクなりたいとのこだわりがありますから困りものなのです。足るを知らぬが故の「地位に恋々」。それこそ(それを発した)「自分じゃ~ん」と思えてなりません。

 

最近、小田原に祖母すずさんの墓参りに行く機会がありません。

お盆ですからね、ただし気持ちとしては小田原の光円寺参りは「記憶」の隅に置いていいます。

どこかでも記していますが光円寺は小田原でも珍しい真宗でお西のお寺です。すずさんが嫁いだ高浦家墓碑銘の「信士や信女」を見て「違うだろ・・・」と疑問に思った方がいらしたらそのスジの人。

ひと昔前ならば致し方ないにしろ現在は大抵その文字は真宗寺院で使用しない方向になっています。

取りやめる機会がないのでしょうね。

 

ちなみに拙寺ではその二文字の使用はありません(過去帳に見られません)。

過去に付属する何かがあったとすれば「不退」か「不退位」ですね。時々耳にする「不退転の決意・・・」のアレです。

仏教的なイメージとしてはズバリ「仏になる」ことで「解脱」「覚る」です。

今私の時代では使用しません。やはり今それを使用する方(政治家の皆さんに多い)にはどうぞ「成仏」してください・・・。

そもそもが「嘘くさい」のです。

 

私は母方の祖母の名はいつも耳から聞いた「すず」の語と法名の「釋尼妙鈴」の「鈴」から「すず」読みをしていました。

しかし前回マジマジと墓碑の銘を見て驚きました。

「スズ子」とありました。墓碑が正しいとは限りませんが・・・

ということですずさんの旧姓は「鈴木スズ子」と判明。

散々墓参していたにも関わらず亡くなってから40年近く経ってから本名が分かったなんぞは罰当たりな無礼、恥じ入るばかりでした。しかしこれまで誰もが「すずさん」と呼んでいましたからね。

「すずさんの」勘違い読みは過去ブログ北条氏政・氏照のところで記しています。

 

この光円寺は「板橋」という地ですが、東海道の箱根へ至る街道筋にあたります。そしてこのお寺の東側の丘が小田原城の土塁址になっていてその大土塁の上にあたる神社が居神神社(場所はこちら)。

 

この光円寺と居神神社といえば私の小学校時代、放課後の主戦場でした。

今はなき「2B」(過去製造中止になった花火)や爆竹の赤いやつ(今のものより火薬が多い)の投げっこにロケット花火の水平撃ちで遊びました。特にワクワクだったのは当時街のそこいらじゅうに転がっていた犬の糞にそれを差して火をつけるというお遊び。ゲラゲラ笑いながら逃げ回った思い出があります。

今そのような面白くて危険な遊びは町中どこを探してもあり得ませんが、当時は無茶をやりましたし社会は寛容でした。

よくまぁ人様や自身含めて無事でいられたと思い返すばかり。小遣いの使い道はアイスバーと駄菓子と爆竹が定番の時代でした。懐かしい・・・

 

前記過去ブログリンク先にも記しましたが「居」は居るですね。では何がここに居るかといえば「神」。

その神らしきものといえば、やはり「三浦荒次郎義意」。

そう記せば「なるほど、よりおどろおどろしい!!」ということになっていよいよ興味が湧いてきます。

 

三浦荒次郎義意の伝承はハッキリ言ってバケモノです。

神社の境内の看板にもありますが伊勢宗瑞に攻め滅ぼされた新井城(三浦城とも)の城主(父の義同-道寸)の子で彼は最後の三浦氏と記されることが多いです。

三浦一統は3年間籠城しつづけますが結局兵糧が尽きて永正十三年(1516)7月11日に城から出て義同は自刃、同じく義意は北条勢を500人殺したあとに自らの首を切ったといいます。

「身長は七尺五寸(227㎝)で85人力」は北条五代記の記述と言いますがこれではまるで漫画でしょう。

 

また凄いのは「首は死ななかった」という伝承。

胴体から離れた首は恨めしい北条の本拠、小田原まで飛んできてこちらの木に食らいつき東海道を通行する人々を睨み続けたと。

三浦とは・・・神奈川でも風光明媚な海のダイコンでも有名なあの三浦半島の三浦ですが、近くの「油壷」なる地の発祥は三浦一統の「血の海」を示唆しているといいます。

 

平将門伝説にヒントを得ていると思わせるような「荒次郎の首」のお話でした。

 

美濃屋鈴木家から高浦家に嫁いだスズ子さんの「スズ」は北条氏政、氏照首塚に吊るされる「鈴」つながりというのは少々考えすぎの感がありますが、スズさんの夫、私の母方祖父の名は「高浦浦次郎」です。夫婦揃って苗字と韻を踏むような名も特異です。ちなみにその親(曾祖父)が高浦高太郎。

 

明治24年生まれの浦次郎さんの銘々の経緯はわかりません。

しかし「三浦荒次郎」の名は地元では「勇壮で荒々しい」を表しますのでそれを考えるとなかなか面白いとニヤリとくるものがあります。

 

この居神神社は小田原の子供会区割りで「30区」になりますが私は「32区」でごく近隣。30区のイベントにも顔をだしたりもしていました。

当時はキリスト教会に通って子供会では御輿を担ぐなど宗教観ゼロでしたが、こちらの神社の大祭が昔は「三浦荒次郎」の首が飛んできた「7月11日」だったことからもこの神社が三浦が宿る社であったことがわかります。

 

余談ですが私の同級生はこの神社の賽銭箱投入口にちり紙を仕掛けてその「釣果」を確認に行ったところを御用になったと聞きます。ワル知恵の働く子でしたが・・・

①~⑤が光円寺。⑥~がお隣の居神神社。