瀬名一秀 今川→瀬名 今川「天下一苗字」光鏡院 

呆れ果てて絶句した過去の思い出。

地元では親しくしてもらった友人が二人いましたがそのうちの一人が「見てもらった」結果、「名前が悪い」との指摘を受けたといわれ、悩んだ挙句改名したことがありました。

 

「見てもらった」のフレーズはブログでも何度か記していますが、占い呪術系の世界に詳しい人に・・・のこと。

当地では何かあると(まず大抵が不都合な事々)とか「見てもらったら?」とのアドバイスをする人が居て、結果「見てもらった」という人が結構いらっしゃるのです。

 

そのことを僧籍にある私に告げるという意味が当初はわかりませんでしたが、最近は「みんな悩んでいるんだ・・・」とか「結構弱いんだ・・・」程度に流しています。

要は「それ」と仏教を繋げた思考があるということで、唖然としたものでした。

 

「見てもらう」とはそれによって何らかの解決策を求めるというポジティブ思考のように思えますが、私にとっては「何それ・・・」ですね。

当たり前です。まず何より論理的ではないですよ。

中には「ご先祖様がお怒りになっている」と言われて慌てて回忌法要を執り行うこともあってまんざらその法縁を後押しするということからは「悪い」とは断言できませんが、そのきっかけはもうこれは自分本位以外何物でも無いですからね。

 

その非論理の最たるものが「改名しなさい」でした。

人は誰かが忌避すべきこと等を言い出すと何故か広まってそれに従おうとしますね。

大衆の心理とはそういうものですが(単純)、特に昔は「方角」とか最近でいえば名前の画数です。

おそらく彼はその名の字面と画数を指摘されたのでしょう。

 

幾らの「指導料」を支払ったのか不明ですが彼に披露されたその名は偶然にももう一人の友人が名のっている「秀」と私の「一」を合わせた「一秀」でした。

 

それを聞いた私たちは爆笑して半ば罵りに近いカタチで味噌クソに笑い倒したことがありました。

本人は当時必死でしたから今になってはそこまでバカにすることは無かったと思っていますが・・・その後彼はその名を元の名にに戻していました。

思うに、何て無駄なところに労力を使ったものかと。

結構に大変な作業があったと聞きますし。

 

見てもらおうがそうでなかろうが同じ、というかもっと悪い方向に向かってしまったようにも思えます。

真宗ではその手の似非ポジティブ思考を「自力作善」と言い放ち「雑行雑修自力のこころ」であって、これこそ「振り捨てる」べきものと伝えています(改悔文)。

 

まずまずみなさん「心が弱い」「不安である」と思われている方、発想の転換をしてほしいところです。

 

その助けとなるのは親鸞さんが記した「自然法爾」という語の力強いスタンス。是非にお薦めいたします。

どこかでも記しましたがそれは「刃の心」、強い心・・・「忍」の一字でもありましょう。

 

さて、大河ドラマは少々ダレぎみ。

最近はチャンネル合わせが面倒くさくなってしまいましたが、最後に駿府の梶原山が紹介されて気を取り直しました。

岡崎の瀬名の籠る寺を去る際に何気なく発せられた「数正!!」の台詞の如く「藤蔵!!」の台詞を待つ(まったくどうでもイイことでかつ勝手に・・・)私にはその視聴の継続は怠ることはできません。

 

ブログについて何を記そうかな・・・というのはだいたい前日の夜9時以降ですから、そのヒント<梶原>を戴いたという意味で頭の中がハッキリしてきたというところです。

 

その梶原山の駿府より西麓に位置する地が瀬名。

そちらの光鏡院もその番組の最後に紹介されていました。

その「光鏡院」(場所はこちら)とは瀬名一秀の戒名から。

 

本堂に掲げられた「丸に二つ引き両」の紋を見れば今川系であることにピンときますが、引っかかるのは曹洞宗であるというところ。

どうしても今川=臨済宗というイメージで固まってしまっていますので。

まぁ寺というものは浮沈を繰り返しながら仏法「継続」をただ一つ願うものですからどこかの時点で抜きんでて寺に尽くす僧などが出た場合、宗旨など関係なく、その変更がされることはよく見らます(こちらのお寺についての詳細は不明です)。

 

瀬名一秀の「瀬名」は地名からの名のりですが彼の屋敷のあった地の元の名が「西奈」でその呼び名が「瀬名」に変化したとも言われています。

 

そして彼の元の苗字は「今川」でした。遠江今川氏六代の今川貞延の次男です(兄は貞基)。

駿河今川氏五代当主今川範忠が足利義教から同族庶流の今川姓の使用を禁じるという恩賞、「天下一苗字」を与えたため遠江の今川系はその名を名のれなくなってしまいます。

 

ということで遠江今川系は「堀越」(兄は堀越貞基)を名のりました。弟の貞延は将軍義教もそうですが一族長子以外の弟たちの辿る道と同様当初は僧籍にあって海蔵寺に居たといいます。

 

遠江今川が手を焼いていた狩野氏や斯波氏を駿河から挟撃するために駿河今川と共同歩調をとっていた際、駿遠完全統一を目指した今川義忠が塩買坂で滅したために急遽一族の結束を固めるために還俗していた一秀(元の名は今川義秀)が「瀬名一秀」を名のって駿河に入り、義忠の子の氏親の補佐役に回ったといわれています。

 

そういうことから推察するに今川氏親派ということ(勿論それであったからこそ家名は残った)で駿河に下向した太田道灌との折衝やら伊勢宗瑞(北条早雲)との共同歩調が想えます。

 

画像五輪塔は五百回忌を記念して建てられた供養塔。