竹千代の教材 「童子教」 「 前車之見覆 後車之為誡」  

たくさんのお坊さん方が組織だって動く曹洞宗の葬儀に圧倒され、また我が身のお粗末をいよいよ感じながら火葬場から帰宅しました。ただし、ゆっくりと休憩している間はありませんでした。

 

夜半からの雨に備えてブーゲンビレアや花ガラを屋根の下に移動してから、小和田先生の相良小学校での講習会に向かいました。4月上旬にブログにて紹介させていただいておりましたが、片浜小学校が相良小学校に合流した(というか併合)その記念講演で小学生5~6年生が主体、「それ以外」も参加可能ということで募集広告が相良中いたるところに貼り付けられていました。

そのせいなのか体育館に集まった人たちは子供たちの数よりも多かったように思います。

 

タイトルは「歴史から学ぼう~家康の読書術~」でした。

よって表記竹千代は家康の話。

「子供向けじゃん」などと馬鹿にすることあるべからず。

そもそも小和田先生は子供向けの書籍も各記されていますので子供たち用のわかり易さのポイントは押さえてお話しされますが、私どもにも聞きごたえは十分。

 

ここでも「昔の学校はお寺だった」などとの解説に少々今の私の有様に「耳が痛い」ような気分になりましたが、まぁその「寺子屋」などを今更私が本気でやるワケにはいきませんね。

檀家さんたちにそのスジのプロがまたぞろおられますので。

出来の悪い坊主は肩身がせまい・・・というところが実情なのですがそれすらも最近は図々しくも感じなくなっています。

 

昨日は、義経家臣の佐藤兄弟塔について記しました。

講演で出てきた「家康が好んで読んだ本」といえば「吾妻鑑」が筆頭であるといわれますが、要は家康が武家の棟梁源頼朝研究を好んでしていたということです。

 

家康は義経の滅亡は「やりすぎた」ための失策であったと指摘していたとのことです。

平氏を「完膚なきまで」ではなくどこかに生かしておけば、頼朝はそちらへの管理者として義経の生き残る術というか頼朝に重宝に扱われていたということでしょうか。

 

しかし歴史的にいえば平氏が頼朝(敗者の子)を生かしたことによって自らの滅亡を招いたように、以降「完膚なきまで」は武門のいわゆる鉄則で冷酷と揶揄されようがその決断は早期に行うことがあるべき道なのですね。

関ヶ原勝利の際、毛利と島津を改易し、特に薩摩という地には譜代の家臣を配していれば明治維新などいう暴挙は無かったでしょうね。

私は幕府体制側から自ら発生、ゆっくりと沸き起こる「国民主権」を見たかったです。タラレバですが。

 

さて、歴史書「吾妻鑑」のほかお寺の住職(臨済寺の太原崇孚―雪斎)に竹千代が教わった教科書といえば・・・「童子教」。

こちらはウィキでググっていただければと思いますので割愛。

ことわざとなって耳に慣れ親しんだ語や仏教的、儒教的なるほど感満載で、明治期まで使用されていたようです。

 

特にその中で小和田先生の「一番好きな言葉」を紹介いただきました。それが・・・

 

    「 前 車 之 見 覆  後 車 之 為 誡 」

                              

   「前車の覆るをみては 後車の戒めとす」

 

コレは「高速道路では車間距離をとれ」のようなことではありません。

まぁそのようにとって戒めとするのもよろしいのですが、

いわゆる「先達の失敗を「鑑」(かがみ、手本とす、見極める)として続くもの(自身)のいましめとする」ということです。

 

「吾妻鑑」等歴史書に「鑑」がつく書籍は多数(「四鑑」「鏡物」-かがみもの-「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」)ありますが、当時の人々は一同基本は「歴史に学べ」は特に重大事項だったのでした。「歴史こそ私の鑑とせよ」です。

小和田先生は「家康に学ぶ」は歴史に登場する「大成した」イメージのある駿府の大御所、家康はやはり「歴史」を学んでいたということを伝えたかったのでしょうね。

 

質疑応答の時間は子供たちの旺盛な興味、向学心でほとんどエンドレス状態。途中子供にありがちな「どうして」「なんで」の連発があって先生は汗を拭って上着を脱ぐというシーンがありました。

それほどの「ヒート」を拝見するのは珍しくまた素晴らしいことと驚かされました。

司会者は子供たちの質疑を強制的に打ち切って終了前に大人たちに質問の有無を振りましたが、大人たちはその字の如くまったく「大人しい」。

 

ここが「相良」でしたので自重しましたが私も少しばかりの質問したいことはありました。

知っている顔が並んで少々こっぱずかしいところもありましたが・・・

 

大河ドラマのお話し含めて家康の最大の功績は平和安定の時代を作ったということに触れていましたが、「戦国時代」とは大雑把にここ駿遠に合わせて、今川義元の生まれた1519年あたりから家康の亡くなった1616年までが「本格的戦乱の時代」という伝え方をされていました。

 

そしてまた先般駿府主体で家康没年400年のイベントが行われていて「次は今川義元生誕500年」とその区切りが訪れる事になると・・・。

そこで大河の今川義元の話になったのですが、例の噺家の師匠が話さないことに対する違和感について自ら語っていたことについて話していました。

 

今川義元は昔から愚鈍、貴族趣味、武門として二流、負け組のイメージで凝り固まってしまいもはやそれを拭いようもない観念となってしまっている中、今回のNHK大河のあの演出はそれらの悪イメージに「不気味」「恐怖」を加えてしまったことになりかねませんね。

今川氏研究の第一人者としての先生のスタンスと今川義元再評価の意向は私も承知している中、あの演出はドラマとはいえ不本意ではなかったのでは?というところがわたしの知りたいところでした。

 

ところがですね、遠州でもここいらでいうと(歴史通に限りますが)絶対的勝間田・横地ファンという方たちも顕在で、今川家に肩入れしたような発言は憚られる雰囲気があるのです。

もっとも市長も挨拶の中で「家康より田沼」などと一瞬場が凍り付きそうなような事を仰っていましたがホントのところは皆さんもゴチャ混ぜになっているのかも知れません。

市民へのリップサービスだったのでしょうが私は別に田沼さんにこだわっていませんが・・・。

 

①は昨日の講演会の様子。②③は「童子教」ではありませんが明治期の女子用習字手習いの書から。こちらは先日亡くなった永田さん(野村家)の家から出てきたものです。お借りしました。

④⑤は子供向けの戦国書籍。④の戦国武将のカテゴリーに本願寺十一世の「顕如」さんが登場するなど思わずニヤリとしてしまいます。⑤が小和田先生の監修のもの。

 

「歴史から自分の行動規範を学ぼう」の導入部分。まず「カッコイイ・・・」から。

 

尚、小和田先生の最新、「今川義元」再評価を促す番組は

NHKのEテレ「先人たちの底力 知恵泉」です。

5月23日と30日の2週連続で今川義元。

 

静岡市がどこまで「今川義元生誕500年」を生かすことができるのか甚だ疑問です。