山谷超え 川根にも甲州にも   春野町の勝坂城

「天狗」という存在、現代の若年層のみなさんにおいて、それを理解されている方は意外に少ないかと思います。

昨日記した天野の居城、犬居城で無理やり引っ張ってきた「天狗」についてです。

 

ここで「無理やり」と記しましたが、そもそもこちら春野町は「天狗の村」としてでも売り出しています。

近隣の秋葉山秋葉神社(火伏でお馴染み)など修験道山岳信仰のメッカですね。

 

こちらの伝承として「三尺坊大権現」なる行者が出でて「天狗」信仰のもととなったという言い伝えがあります。

天野氏の犬居城が行者山という名であることからもそれから派生した修験道場を考えるのは流れ的に言って当然のことでしょう。

 

その天狗の伝承は全国的にあるのでしょうが、私は小田原育ちでしたから、南足柄の大雄山最乗寺、通称「道了尊=天狗」について幼き頃より見聞きしていました。

本来、天狗とは修験道修行者がパワーアップして「進化」した仏教守護の化け物であって大元は「迦楼羅」(カルラ)からといいます。

私は趣味的にはあの鼻の長い独特の顔のもの、烏の如くの嘴と羽のある可愛らしいもの、よりも興福寺や三十三間堂の迦楼羅像のスマートさの方が好みです。もっともあの「鼻の長い」天狗のイメージというものはそう古い歴史はないようですね。

 

しかし、最近はその「鼻の長い」を「有頂天」としてあるべき姿ではないことの代名詞として使用するようになりました(「有頂天」も仏教語で最上位世界を意味する語)。

 

子供たちの畏怖の気持ちはどんどん消えて行き、「天狗なんていないよ」という声が聞こえてきそうですが、実は天狗も有頂天もまたぞろ永田町界隈に出没しているようですね。

あの山に籠ると人は化け物になります。

 

さて、家康は犬居城を攻め立てて天野氏を追い詰めます。

この頃も家康らしいというか地道に周囲の城を詰めながら徐々にその包囲網を狭めていくのですが、家康は天野氏の逃げ道として北側を開放していたようです。北方への逃げ道といえば「甲斐へどうぞ」の提案ですね。

 

籠城軍を包囲して攻城戦となるに、どこかに開放路を開けておくことは戦術的得策です。追い込んで詰めすぎれば相手は思わぬ反撃を試み、自軍にとって厳しい結末を迎えることは予想できますね。

ちなみに信長が伊勢長島を鎮圧した際は、前面降伏したところを騙し討ちにした結果の皆殺しでした。

 

今アメリカは目には目を敵に花火の打ち上げ合戦に参加、盛り上げを見せていますが、「包囲網」をキツクすればもしかして大暴走の結末もあるかもしれません。

逃げ道を開けてあげるという配慮も大人の振る舞い。

 

犬居城を放棄した天野があの山と谷を越えて入ったのが勝坂城です。

私は先日の高根城途上の際、静岡県道389号水窪森線から国道473号(362号重複)を「布滝」経由で川根に抜け大井川沿いに相良に戻るという前回の逆ルートを粋狂にも選択しました。

 

そちらはうんざりするようなカーブの連続と落石によって転がる石たちや明らかに車がぶつかって歪んだものではない「上部からの重量物の落下」を思わせるガードレールと、山々そして崖と谷が連続する景色を見ながら車を進めます。

高根城からの県道を走ってしばらく。

 

その谷に流れる川が犬居を巡っている気田川の源流域、春野町でも「最深部」勝坂城(城郭大系の表現)ということになります。

「標高890mの入地山からわかれた尾根の先端、東から南へ気田川、西から南へ入地沢によってY字状地形を示す猪ケ鼻」(場所はこちら)

 

私は城めぐりをしだして色々拝見しましたが、昨日の相良平地の不動産ではありませんが、「誰がここを攻めるんだ」と思わせるような場所で、想像を絶します。行ってみて感じてください。

「籠城でも何でもご自由にどうぞ」と放置していて問題ないと思わせる事必定。

しかし天野氏は逃げも逃げたり、犬居城から勝坂城まで結構な距離があります。もっともこちらから甲州方面に落ち延びたといいますので長居はしなかったのでしょうが。

 

時間を忘れるくらいの長い間そのような道をカモシカとすれ違いながら相良にたどり着いたというのが実のところ。

走っている最中は後悔して懺悔したくなるような道ですが、時間が経つと「また行ってもいいかも・・・」などと軽口を叩きます。

何せ走り出して2時間以上は対向車はないような人口密度の低い場所。同乗者一同「冗談じゃぁない」だったでしょう。

携帯電話の電波も届きません。もし何かあったら「アウト」の地です。

 

画像②のみ以前来た時の図。あの時の車はパジェロでした。川根方向から来た時の図です。③とは逆方向になります。